六点漢字の自叙伝(34)


六点漢字の自叙伝(第34回)1999年8月、通巻第200号

最初の点字ワープロ競技会からAOK98誕生まで

 この「点字サイエンス」も来月号までになった。

このシリーズもいよいよ終りに 近い ので、項目を立てて急ぐことにする。

・視覚障害者ワープロ競技会の開催

 昭和60年10月頃のことである。

日本盲人職能開発センターの篠島永一氏から、点 字ワープロの全国競技会を新たに開催するのでAOK88を貸して欲しいとのご依頼 があった。

 それまで毎年日本盲人会連合と同センターは共同で、「全国点字・カナタイプ競 技大会」を開いてきた。

それに「点字ワープロ部門」を新たに加えるというのだ。

 この話を聞いて、私はいよいよカナタイプから日本語ワープロの時代が到来した とうれしかった。

 早速AOK88を3セットお貸しした。

 実は、最初の「点字ワープロ競技会」は、六点漢字協会が主催して、その2年前 の昭和58年7月に1回だけ行なっていた。

 小規模ではあったが、これが視覚障害者におけるワープロ競技会の最初 であった。

 初めての視覚障害者ワープロ競技会の会場は日本点字図書館であった。

 参加者は56人で、富士通からのパソコン貸し出しの協力もありFM8のワープロ が11台そろえられた。

 ただ、初めてワープロに触れる人も多かったので、速さを競うというより、一種 のデモンストレーションであった。

初めての視覚障害者ワープロ競技会というので、朝日、読売、毎日、日本経済から の取 材があった。

 ちょうどその直後に山陰地方の大豪雨のニュースと重なり、紙面に出なかった新 聞もあった。

 この時、来賓として日本点字図書館館長の本間一夫先生と日本盲人職能開発セン ター所長の松井新次郎先生をご招待した。

 この競技会がきっかけで、日本盲人職能開発センターにおける職業についての訓 練内容がカナタイプから、点字ワープロへと変わったものと思う。

 そして、2年後に、先に述べた、「点字ワープロ部門」新設につながったのであ ろう。

 私としても、この方が、競技会を大規模にできるので、歓迎するところであった。

 そして間もなく、この競技大会からカナタイプ部門はなくなり、日本語ワープロ 部門がそっくりそれに代わった。

 時代は、視覚障害者のカナタイプ時代から、明らかに日本語ワープロへと移った。

 これは、画期的なことである。

 大会は参加者も増加し年々盛んとなり、厚生大臣杯などの各種の賞も加えられて いっ た。

 前にも紹介した私が尊敬する恩田卯平(オンダ ウヘイ)先生は、10年ほど前に 85歳でこの大会に参加した。

 先生は、「六点漢字」で文章を書き特別賞を受賞している。

 そして、今年も同競技大会は開催される予定だ。

 また、労働省関係の日本障害者雇用促進協会主催の、今年で第23回になるアビリ ンピックという、障害者の職業技能を競う全国大会がある。

 第4回から「カナタイプ部門」が設けられたが、ここも「日本語ワープロ部門」 に切り替えられ、ほとんど、同センターの訓練生が優勝している。

・点字毎日文化賞授賞

 昭和61年の、夏休みの終る8月31日のことであった。

 当時の点字毎日編集長の牧田克介(マキタカツスケ)氏から、突然自宅に電話が 入った。

 第23回点字毎日文化賞受賞者に推薦されているが、授賞を承諾するかという確認 であった。

 授賞理由は、点字における漢字の開発ということであった。

 これについては、8点式点字による「漢点字」の川上泰一(カワカミタイイチ) 氏と同時授賞ということであった。

 点字の漢字には、氏の「漢点字」と、私の「六点漢字」の2種類がある。

 点字毎日としては、そのいずれかを選ぶということができなかったのであろう。

 川上氏の「漢点字」は、昭和44年に発表されている。

氏のご努力と熱心さには敬服しているが、当初はその「漢点字」をコンピュータと 結び つけて、ワープロや自動点訳を行うというアイディアや具体的計画はなかったよう であ る。

 私が昭和50年の4月に日本ME(医療電子技術)学会で、前年の国立国会図書館 電子 計算機室などで行なった、今で言う点字による日本語ワープロの発表のニュースを 聞き、川上氏は驚いたことと思う。

 自分の後に点字の漢字を作った者がある。

その上、六点式で通常の点字である。

氏の怒りの声は、いろいろな形で、私の耳まで聞こえてきた。

 その勢いで、氏から「漢点字」を習った人達も影響を受けた。

私を「憎き競争相 手」と受けとめたようである。

何かにつけて私に反発してきた。

 どちらの漢字がよいかについては、感情的なものでなく、漢字の1字ずつを丹念 に比較して論じなければならない。

 自分の漢字体系を説明するのに都合のよい文字だけを持ち出して自慢するのは、 互いに誤解の基となる。

 私は点字毎日からの受賞承諾の確認をされこう考えた。

 私の目的はコンピュータを用い、自動点訳と、視覚障害者が自力で日本語の墨字 を書ける点字ワープロを実現することである。

だから、川上氏と同列に点字の漢字 の開発という理由で賞を受けるのには不満であった。

 しかし、ここで授賞を断れば「漢点字」の川上氏だけが受賞することにな る。

 そうなれば、社会的に「漢点字」だけが評価され、「六点漢字」は圧倒的に不利 に なる。

そこで私は、この賞を受けることを承諾した。

 私は、パソコンの発売される8年も前から、数億円もする汎用コンピュータを借 り て、点字の実験を行なってきた。

そして、昭和56年に漢字の使えるパソコンが発売 されて、個人が自分の机の上で使える点字による日本語ワープロを開発した。

 「六点漢字」は、そのための手段であり、また副産物でもあった。

 しかし、副産物とは言え、健常者の世界に漢字を含む文字体系がある。

これは文 化を表わす文化そのものであり、また文字により表現される文化の要素でもある。

 その健常者の世界の書き言葉としての日本語体系に、漢字や各種の符号に、一対 一に対応する漢字を含む総合点字体系を健常者と同じに持つことは、絶対に必要で ある。

 その六点漢字体系の開発だけでも充分に意義があると考えた。

 点字毎日文化賞の授賞式は、昭和61年10月17日に、毎日新聞本社の会議室で行な われ た。

 川上氏は、当日私に固い握手を求めて来られた。

それは大きな手であった。

 物事の好き嫌いをはっきり言う人だが、さっぱりした気性の方だと思った。

 点字毎日文化賞の授賞のことは、毎日新聞と毎日グラフの記事になった。

・AOK98ワープロの発表

 昭和61年11月23日の勤労感謝の日は、やはり忘れられない日である。

 この日、東京の北区にある東京都障害者総合スポーツセンターの集会室で、高知 システム開発が、NECの、PC−9801によるAOK日本語ワープロの発表を 行なった。

 これに合わせて六点漢字協会は案内状を発送し、多数の見学者があった。

 新しい合成音声装置の音声は、高知システム開発がこのワープロ用に開発したも ので、AOK88のSSY−02の音声とは比較にならないほど明瞭であった。

 このAOK98シリーズは、NECの98シリーズが「一太郎」などで日本語対 応のパソコンとして独占状態になったように、視覚障害者用ワープロとして広く普 及した。

 それは、AOKが、98においてもフルキーボードを点字式に使えるようにした ことと、次のバージョンで、漢字の詳細読みが追加されたためだと 私は思っている。

    (六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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