六点漢字の自叙伝(32)


六点漢字の自叙伝(第32回)1999年6月、通巻第198号

フルキー上に点字キーを実現 ― 六点漢字ワープロ2号機の開発

 新発売のNEC PC-8801を、昭和58年の新年早々、秋葉原にあるNECの直売店 兼ショールームのBit−INN東京へ買いに行った。

しかし昭和56年の夏に、同じ秋葉原のパソコンショップ「コスモス」へ、FM−8 を買いに行った時ほどの異様な熱気はなかった。

 目的のNEC PC-8801の本体は、22万8千円であった。

 そして漢字を書くには、FM−8同様、第1水準漢字と非漢字のROMを約3万 円で別に買わなければならなかった。

 また、5万8千円の高解像度モノクロディスプレイも必要だった。

 ところで驚いたのは、8インチのフロッピーディスク装置がこのとき約50万円も したことであった。

 これは、本体価格の倍以上である。

 しかし、これらの装置を一通り買わなければ、開発はできないということなので 購入した。

 だが、その約1年後に発売された普及機のPC-8801mkII(マークツー)は、漢字R OMと、5インチフロッピーディスク装置が内蔵されていて、それで前の機種の本 体とほぼ同価格だった。

 1年足らずで、値段が前の機種の約3分の1になってしまったのである。

 パソコンの進歩の速さと価格低下のすさまじさを思い知らされたエピソードであ る。

 開発には、これだけでなくCP/Mという基本ソフトとC言語も必要だというの で、それも購入した。

 これだけの機械とソフトを村井氏に預け、フルキーボード上に点字キーを実現し た点字ワープロ第2号機の出来るのを待った。

 「フルキーボード上に点字キーを実現する」とは、通常のキーボード上で点字タ イプライターを使うように、6個までの点字キーとスペースキーの操作で、平仮名、 片仮名、数字、英字、漢字、それに改行、消去などの機能操作を直接行なえるよう にしてしまうことである。

 これが実現すると、専用の点字キーボードが不要になるので、点字ワープロ開発 においては画期的なことである。

 またその後において、フルキーボード上における、いわゆる「点字キー式点訳と、 そのソフト」の開発に大きな影響を与えた。

 それから約1カ月後のことである。

村井氏が、試作の点字ワープロソフトが保存 されたフロッピーディスクを持って附属盲学校へ来た。

 学校には、すでにもう1台のPC-8801を用意してあった。

 私は早速そのワープロソフトを立ち上げた。

 何秒ぐらいだったろうか。

電源投入後に素早く立ち上がった。

 そこで、すぐに、フルキー上の六点キー入力と六点漢字ワープロの出来具合を試 した。

 それは私の計画通り、フルキーの左手による、F、D、Sで、点字の「1、2、 3」の点、同じく右手によるJ、K、Lで「4、5、6」の点が打てた。

 そこで、試しに「1の点」であるFキーを、指で出来るだけ速く、1秒間に10回 ほど連続して打ったが、その回数だけ、点字の「1の点」である「あ」が、「ああ あ‥‥‥」とディスプレイ上に、1文字も欠落せずに表示された。

 点字ワープロとして、キーの反応速度は充分である。

私はこれにまず満足した。

 点字キーの確実さを確認できたので、今度は六点漢字で文章を書いて印刷した。

文字を書くごとに「ピッ、ピッ」という短いクリック音がして、正しく書けている ことがわかった。

 ワープロで最低限に必要な、改行、直前の文字の消去、印刷、ファイルのセーブ などの機能動作は、スペースキーと点字キーとの組み合わせで行なった。

 スペースキーと点字キーとの組み合わせで機能を実行する方法は、後にAOK日 本語ワープロにおいて、それを拡張した形で生かされている。

 印刷速度は、FM−8のワープロに比べ圧倒的に速かった。

 それは、新発売の漢字プリンターであるNECのPC-PR201を用いたからで ある。

このプリンターには、FM−8の時と異なり、漢字ROMが登載されていた。

 これは24ドットのワイヤーによるインパクトプリンターであるため文字品質がよ く、実用的な事務用文書の作成ができた。

 このようにして「六点漢字ワープロ第2号機」は、村井和雅氏と共同で開発した のであった。

 佐藤亮氏に依頼したFM−8によるワープロも、もし同じ性能のプリンターを使 えば同じ印刷ができたはずである。

 この違いは、、約1年という時間が、パソコン及びその周辺装置に圧倒的な性能 の進歩をもたらし、その結果によるものである。

 このようにして開発された六点漢字ワープロ第2号機を、私は早速ワープロ指導 に活用した。

 田中文人(ふみと)氏は全盲で、現在東京都町田市立図書館の職員である。 (2003年現在、牧師としてアメリカ在住)

そして市内の視覚障害者に六点漢字も使 える「マイワードII」というワープロの指導を行なっている。

 彼は生徒時代の昭和57年9月に、NHKの森口繁一先生による「コンピュータ講 座」で、私のワープロ指導の授業を受けているところを紹介されたことがある。

そして今も仕事として、六点キーで視覚障害者にワープロの指導を行なっている。

 これは生徒時代に触れた、あの第1号機と第2号機における学習の延長であり、 私としてはうれしい限りである。

  また、この六点漢字ワープロ2号機で大学の卒業論文を書いた人もあった。

 現JBS(日本福祉放送)の職員である川田隆一氏は、附属盲学校から明治学院 大学に進学したが、卒業論文を六点漢字ワープロで書いて提出することにした。

 そのため、附属盲学校へ1週間ほど通いつめて、約40枚の論文を書き上げた。

 私は、ワープロの六点漢字だけのキーの操作法だけを彼に教えた。

 それは、漢字以外は、通常のカナの点字文とほとんど同じに書けるからであった。

 恐らくこれが、視覚障害者が直接に書き上げた墨字の卒業論文の最初であろう。

 当時は、健常者の卒業論文も、まだ手書きが普通の時代であった。

 その頃、私は高知県立盲学校の有光勲氏に、この六点漢字ワープロ第2号機のソ フトと、鈴木茂義氏の音声化パソコンのソフトを送った。

 鈴木氏は、当時筑波大学の大学院生で、後に電子技術総合研究所の研究員になっ た人である。

 氏は、附属盲学校の錦野弘(ニシキノ ヒロシ)氏(現国立身体障害者リハビリ テーションセンター職員)の友人であり、その関係で私を訪ねて来た。

 彼は六点漢字ワープロ第2号機を見て、「これを音声化しましょうか?」と提案 してくれた。

 しかし、音声化ワープロについては、村井氏の計画があったので、鈴木氏には、 まだ開発されていないと思われた「音声化パソコン」のソフト制作を依頼した。

 今考えると、その後視覚障害者用スクリーンリーダーVDMを開発した斎藤正夫 氏(現アクセステクノロジー社長)あるいは他の方が既に作っていたのかもしれな い。

 ともあれ鈴木氏は、3週間ぐらいで音声化パソコンのソフトを作って来た。

 それは、亜土(アド)電子という会社のSSY02という音声装置を用いたもの である。

当時は、それが最も優れた音声装置であった。

 私は有光氏にこの2種類のソフトを送ったが、これが契機となり、後に日本中に 最も普及した「AOK日本語ワープロ」へつながった。

 それには、有光氏、大田氏、すでに亡くなられた北川紀幸氏の大変なご努力があっ た。

 昭和58年10月、私は中国・四国地区盲学校教育研究大会に招かれた。

 会場は、高知県立盲学校で、公開授業と私の講演などがあった。

 公開授業では、北川先生が六点漢字ワープロ第2号機を用いて養護訓練の授業を 行なっていた。

 そして、その場で生徒から常用漢字ではないかなり難しい人名漢字の質問があっ た。

 しかし先生は即座に、その漢字の六点漢字での書き方を答えられた。

私は先生の漢字に関する知識の深さと六点漢字に詳しいことに驚いた。

その漢字と、それを教えられた先生のその時のお声を、私は生涯忘れないであろう。

 研究会が終わり、その夜は高知の料理で歓待された。

 そして、翌日は有光氏の案内で桂浜と坂本竜馬の銅像を見学した。

    (六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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