六点漢字の自叙伝(31)


六点漢字の自叙伝(第31回)1999年5月、通巻第197号

− 視覚障害者用ワープロ第1号機の全国発表と次へのステップ −

 昭和57年度の全日本盲学校教育研究大会は、昭和57年8月初めに岐阜盲学校が 主監校で、岐阜市の中央青少年会館で開かれた。

 全国での発表資格を得るための、5月における関東地区視覚障害教育研究会大会 における文京盲学校での視覚障害者用日本語ワープロ開発の発表と、この全国大会 での同じ発表資料は、私が開発した視覚障害者用ワープロで印刷した。

 盲学校などで、過去の研究大会における発表資料を丹念に保存しているところに は、この最初の視覚障害者用ワープロで印刷された研究発表資料があるはずである。

もし、そのような学校などがあれば、その資料でご確認いただくことができる。

 「確認」の意味は、現在のプリンターの印刷文字などと、21年前のそれとの文 字品質などの大きな相違である。

この20年余で、この印刷物を見るだけで、パソコンの進歩が、いかに目覚ましかっ たかが分かる。

   この5年後の、昭和62年頃までに盲学校などにおいて、全盲の教員が、校務にお いて必要な印刷文書、弱視生用試験問題、研究発表資料などの墨字資料を作成する 際は、視覚障害者用ワープロを用い、全盲の教員自身で印刷物を作るのが普通になっ てきた。

 つまり、全国の盲学校に視覚障害者用ワープロが普及するだけでも、約5年を要 したことになる。

 その後、各地の盲学校から、やがてワープロが一般の視覚障害者へと普及して行っ た。

各地の盲学校は、卒業生の同窓会もあり、その地における文化の中心的な存在でも ある。

    私の昭和57年における、関東地区、及び全国大会での、この発表資料は、視 覚障害者自身が研究発表会の資料として、墨字資料を印刷した最初のものというこ とになる。

 私は、全国発表のため、このFM−8のパソコン、点字キーボード、ブラウン管 ディスプレイ、ワイヤードット式プリンターよりなるワープロの一式を、ダンボー ル箱4個にして、宅急便でこの岐阜市の会場に送り込んだ。

ダンボール箱は、当時 のパソコンのものだから、それぞれ大きなものだった。

 そして、当日は全国大会の点字部会参加者の前で、点字キーによる視覚障害者用 ワープロを実演しながら発表した。

 その発表の反応は大きかった。

   それで、予定の研究会が終ってからも、ワープロを会場に置いたままにし、でき るだけ多くの希望者により実際に体験してもらうようにした。

 すると、大勢の盲学校の教員が会場に残った。

  そして、視覚障害の教員が、交替で、日常に慣れている点字タイプライターと同じ 配列のキーを操作し、本当に漢字を含む墨字が書けることを確かめた。

 その体験で、自分の名前、住所などを、生まれて初めて書けたことなどに感動し ていた。

 その後にも度々感じたが、視覚障害者が、自分の名前を自分で書けるのがどれほ どうれしいかということである。

この研究会後に残った人のワープロに対する熱い反応は、附属盲学校内部における ものと明らかに違ったものであった。

私には、これも忘れられない大変にうれしい 発見であった。

もちろん、附属盲学校にも、私に対するありがたい理解者は多数あった。

しかし、 管理者は冷たかった。

   そして、そのワープロを体験してくれた中の一人に、森田正君という全盲の人が いた。

 彼は、東京教育大学の盲学校教員養成コース時代の同級生であった。

 彼とは、卒業以来の24年ぶりの再会だった。

 森田君は、体調がよくないという話を前もって聞いていた。

 それでも、とにかく私のワープロを実際に触れ、そして動かして墨字を印刷して くれた。

 しかし、確かに、24年前の彼の明るさと元気さは明らかになかった。

 それから数カ月後、森田君が悪性リンパ腫で亡くなったと聞いた。

 その後に、早稲田大学在学中の息子さんが筑波大学附属盲学校に私を訪ねてくれ た。

 私は、同じFM−8のワープロを前にして、盲学校の使われていない放送室でそ の息子さんと話した。

 「このワープロに、あなたのお父さんが触れて墨字を印刷してくれたこと。」

 「あなたのお父さんは、学生時代、「オヤジ」というあだ名で、同級生や寮生か ら親しまれ、人気があったこと。」

 「卒業後10年ぐらいの同級生のテープ雑誌で、ある時、あなたの兄弟とお父さ んが、家族相撲大開を開き、その録音風景を聞かせてもらったことがあること。」

などであった。

 息子さんは、私の話を感慨深く聞いてくれていた。

その息子さんも、今はその時 の森田君ぐらいの40歳の半ばの年であろう。

 同級生の思い出で、話がワープロから思わず外れてしまった。

   また、研究発表会の終了後に残ってくれた方の中に、高知県立盲学校の有光勲 (アリミツ・イサオ)氏がいた。

 この有光氏の存在が、後の視覚障害者用ワープロの発達に決定的な影響を与えた。

   この有光氏が、高知盲学校に帰ってから、この点字ワープロ第1号機のことを学 校に報告した。

 その結果、高知盲学校の教育に、この視覚障害者用ワープロをいちはやく導入し た。

 そのいち早い導入が、2年後の昭和59年におけるAOK日本語ワープロ第1号機 誕生のきっかけとなった。

そして、高知盲学校ワープロ研究会による、このAOK日本語ワープロが、その後 の視覚障害者のワープロ環境に大きな影響を与えることになった。

そして、それはまた今日の「マイワードII」にもつながっている。

(平成11年現 在)  つまり、私の視覚障害者用ワープロが、後に、「株式会社高知システム開発」の 創立につながったのである。

    ここで、8月の岐阜の全日盲研大会から2カ月ほど遡るが、昭和57年6月に、日 本盲人職能開発センターの篠島永一氏(現日本盲人職能開発センター所長)と星加 恒夫(ホシカ・ツネオ)氏(現ニューブレイルシステム社長)が附属盲学校に視覚 障害者用ワープロの見学に来られたことを述べておく。

   日本盲人職能開発センターは、視覚障害者に職業訓練を行ない、またその訓練成 果を生かす授産施設も併設している。

 ここは、「日本盲人カナタイプ協会」が、新しい時代の要請に合わせ、発展的に 施設名を「日本盲人職能開発センター」と変更した施設である。

その歴史の通り、以前から、カナタイプの訓練と、それによる授産が活動の中心で あった。

   だから、訓練と仕事の内容は、まず、録音テープに収めた会議録や裁判録を、視 覚障害者が録音を聞きながら、カナタイプでカナ文の墨字にする。

 それをボランティアが、手書きで更に、漢字を用いた通常文に書き直して清書す る。

 そして、それを文書化の依頼先に、製品として納入していたのである。

 これが、このセンターの仕事であった。

   だから、視覚障害者が新開発のワープロで、漢字の入った墨字文を直接書けるよ うになったことを知れば、当然その技術を導入することになる。

 私は、新開発の視覚障害者用ワープロを、この篠島氏のセンターで使えるように 提供した。

   そして2年後の昭和59年には、日本盲人職能開発センターが、星加 氏のキー入力方式による「エポックライターおんくん」という六点漢字を用いた日 本語ワープロをYDKというソフト会社と共同で開発するに至った。

 これについては後に述べる。

   話をFM−8のワープロに戻す。

 六点漢字による日本語ワープロができて、あちこちから実演の依頼があった。

そ のたびに、都内の盲人会や障害者施設に出かけた。

 日本IBMの研究所に呼ばれ、数十人のコンピュータの専門家の前で六点漢字の 説明とワープロの実演を行なったこともある。

 当時は、東芝の「JW10」(ジェーダブリュ テン)という、日本語のワードプ ロセッサーが出てからまだ3年であり、いろいろな日本語入力の方式が、競って模 索されている時期でもあった。

 だからIBMとしては、六点漢字方式を、新しい日本語入力方法の一つ として注目したのだと思う。

 その結果が今に続くものか、日本IBMにおけるパソコンのフルキー キーボード は、ソフトにより、点字キー式にも入力できるようになっている。

 このことは、高齢者、点字タイプライターに慣れた視覚障害者のパソコン利用を かなり容易にしている。

 また、現在において、いわゆるパソコン点訳の上でも大いに役立っている。

   昭和57年ごろの当時は、日本語入力において、「漢字テレタイプ式」、「ペン タッチ式」、「連想コード式」、「親指シフト式」(富士通のオアシス)などが乱 立していた。

 ここで、私の開発した視覚障害者用ワープロ第1号機の当時における普及につい て述べる。

 私が自由に管理できる「FM−8の点字キー式ワープロ」が合計で11台になっ た。

 そこで、各所にこれを貸し出す形で使ってもらった。

 長期間の貸出先は、日本点字図書館、国立身体障害者リハビリテーションセンター、 都立障害者福祉会館、神奈川ライトホーム、日本盲人職能開発セ ンターなどであった。

 貸し出しの方法は、施設に対し正式にであり、あるいは知り合い の職員に対してであった。

 職員に対して貸したものも、施設に置かれ、点字ワープロの 普及に使われた。

   都立障害者福祉会館では、会館が主催し、昭和57年から定期的に点字ワー プロの講習会を開いた。

 初めの数回は私が講師を担当したが、その後は大坪(圓山)みちこさんに担当し てもらった。

 この大坪さんの講習会には、加藤典子さんが毎回に視覚的な援助を行なっている。

 この加藤典子さんは、六点漢字の第2水準漢字の構成、及びJIS X0212 「情報交換用漢字符号―補助漢字」の5801字の補助漢字の構成に多大に尽力し て下さった方である。

六点漢字の構成法を完全に理解し、私を助けて下さった。

 このFM−8による点字ワープロは、CACGが点字キーボードを40数台販売し たから、その台数だけ、点字キー方式による視覚障害者用ワープロ第1号機が、全 国で使われたことになる。

 私の知る限り、北は北海道高等盲学校(高木教諭、理科)の1台から、南は、沖 縄県の盲学校1台(藤井亮輔教諭)、福祉作業所の4台と、合わせて沖縄の5台ま でであった。

 しかし、私がその点字キーボードの11台を購入していたから、システム全体のF M−8、ディスプレイ、プリンター、点字キーボードまでのセットを購入したのは、 30台のシステムを越える程度ということになる。

 このワープロのソフトは、佐藤亮氏と私に著作権があるが、これは無料で提供し た。

   これらの活動が知られて、パソコン雑誌『ASCII』(1982年11月号)に、 「視覚障害者を助けるコンピュータ」の記事として紹介された。

 そして、次のNEC(日本電気)のPC-8800シリーズによる、六点漢字ワープロ第 2号機が誕生しても、まだしばらくの間、FM−8の点字ワープロが使われていた。

パソコンを含むシステムが高価なので、そう簡単に買い替えられなかったのであろ う。

   昭和57年9月21日に、NECが、PC-8000シリーズに続く、PC-8800シリーズを発 表した。

 これは、NECとしては、初めて漢字の使えるパソコンであった。

 出荷は、同年12月とのことであったが、秋葉原で翌年の1月にやっと入手した。

   このシリーズの本体であるPC-8801は、前のNECのヒット商品であったPC-8000 シリーズのN-BASICが使え、さらに機能アップされたN88BASICも使え るという、当時としては便利な構成になっていた。

 このNECの戦略である前の機種のソフトが、そのまま次の上位機種で も使えるという方式により、Windowsが登場するまでのNECの、PC-98シリーズの 市場独占状態につながった。

   私は以前から一つのアイディアを抱いていた。

 それは、パソコンのフルキーボード上に沢山あるキーのうち、6個を、点字キー としてソフトウェアで固定し、それを点字タイプライターのように使うようにする ワープロの新たなシステムを開発することであった。

 そうすれば、パソコン本体のほかに必要な、専用の点字キーボードが不要になる。

このことにより、ワープロシステムの構成機が少なくなり、また経済的にも約12 万円安くなるはずであった。

  初め、このアイディアをFM−8の上で実現しようとしたが、そのキーボード の構造上、それが無理であることが分かりあきらめた。

 そこで、NECが初めて漢字の使えるパソコンとして発売したPC-8800シリーズ の上で、このアイディアが実現できないかと再び考えた。

 しかし、佐藤亮氏はCACGの新しい仕事で忙しく、ボランティアでの新たな点 字ワープロのプログラム開発はできなくなっていた。

 そこで、このアイディアの実現については、東京理科大学のコンピュータクラブ の学生であった村井和雅(むらい かずまさ)氏に依頼することにした。

 昭和58年1月の初めのことである。

 秋葉原のNECパソコンのショールームと販売店を兼ねるビットイン へ、私は村井氏と新発売のPC-8801、および必要な周辺装置を買いに行った。

 心は、新しい機種への興味と期待で一杯だった。

(六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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