六点漢字の自叙伝(29)


六点漢字の自叙伝(第29回)1999年3月、通巻第195号

− 中国からの印刷事情視察団の前で点字キーによる漢字入力 −

 昭和56年末に、初めて机の上で使える点字による日本語ワープロが誕生した。

 その日のうちに、私は、それまでお世話になっているできるだけ多くの方に、こ のワープロで、その方々のお名前を書いた。

 また、これがパソコンを用いての、点字キーによる初の印刷であることも書き添 えた。

そして、そのプリントを、それらの方々へ差し上げた。

 その文字は、縦と横が16点の構成によるもので、今のワープロの印刷書体の素 晴らしさとは比較にならない粗いものだった。

しかし、当時は、これが、パソコンで印刷できる最高の文字だったのである。

 昭和57年2月頃、中国から日本の印刷事情を調査する、「中国印刷代表」とい う一団が来日した。

 日中国交回復約10年後であり、今の中国と違い、科学技術面では、まだまだ遅 れていた。

 その目的は、印刷全般の視察ということであり、通常の印刷事情のほか に、点字印刷の視察も含まれていた。

 日本点字図書館の本間先生から、「中国より、こんなお客さんが来るから、図書 館に来ませんか」というお誘いがあった。

私は喜んでこのお誘いを受けた。

 私は、この時、ことによると中国人の前で、全盲の私が、中国で生まれた漢字を 書いてお見せできるかも知れないと感じた。

 漢字誕生から2千数百年の歴史。

 そして、日本への漢字渡来以来、漢字を介した文化との長く広い係わり。

 また、漢字が基となり日本のカナが誕生した。

 その長い歴史の一時点において、日本における一人の全盲の私が、中国を代 表するお客さんの前で、その漢字を書いてお見せする。

 これは、私の心の晴れ舞台だ。

私は、その思いに一人で酔った。

 ちょうど、この最初の点字ワープロを最も有効に活用することを考えて、日本点 字図書館の岩上義則氏のところに、ワープロに使うためのFM−8を1台預けてお いた。

 佐藤亮(あきら)氏による手作りによるRS232C接続の点字 キーボードは、1台だったが、FM−8は、ワープロの複数化と故障の予備を考え、 2台追加し合計4台買ってあった。

 しかし、まだ点字キーボードは1台きりない。

 そこで、私が、その点字キーボードを月曜から土曜まで学校で使い、土曜の午後 から月曜の朝まで、日本点字図書館でも使えるように岩上氏の所へ届けた。

 中国印刷代表に会うことになって、学校で、社会科教員で東洋史専門の水原敏博 (としひろ)氏に、「中国人の前で、点字ワープロを用い漢字を書くかもしれない が、何と書いたら喜ばれるか」と尋ねた。

 水原教諭は、「熱烈歓迎」に加えて、団体の名前を書くのがよいと教えてくれた。

 私は、夕刻に日本点字図書館へ着くと、早速この点字ワープロ実演のことを本間 先生にお願いした。

 中国人との会談は、4階に新装開設された大スタジオで行なわれた。

 代表団は、通訳者を含め数人であった。

 話し合いが終わり、私が点字ワープロで漢字を書くことになった。

 まだワープロは作られて2カ月である。

でも予定の文字を間違いなく書く自信は あった。

 やがて私は書き始めた。

 スタジオの中に緊張の沈黙が走った。

 点字キーを押すごとに、ピッ‥‥、ピッ‥‥という音とともに、1字ずつディス プレイに漢字が書かれた。

 やがて、「熱烈歓迎 中国印刷代表」と書き終わると、代表団から期せずして拍 手が起こった。

その拍手の中で私はプリント スタートのキーを押した。

 プリンターは、軽やかに、そして、今のプリンター速度に比べれば、ゆっくりと、 ゆっくりと、ワイヤードット プリンターの音を響かせながら印刷を続けた。

 中国 印刷代表との会談は、約1時間ぐらいだったろうか。

 代表団が帰ってから、私は一人スタジオに残らせてもらった。

 それは、加藤善徳(かとう よしのり)先生に、このワープロでお手紙を差し上 げたかったからである。

 加藤先生は、今日の日本点字図書館を築くため、本間先生の片腕となられた方で あった。

そして、私にとっては、忘れることのできない恩人である。

 この8年前に国会図書館の汎用コンピュータで、初めて、点字から墨字を書いた 後、私に多額の研究援助費を、人知れず下さっ た方である。

 このことが、一人で孤独のうちに点字による日本語入力の研究を進めなければな らない私を、どれほど励ましてくれたかわからない。

その加藤先生が、この代表団が来た頃、病床にふされていた。

 先生は、図書館の敷地内に住まわれていた。

 加藤先生に、私はスタジオに残りながら、国会図書館のコンピュータでの実験以 来、やっと個人の机の上に置ける小型の機械で、視覚障害者が、点字キーを用い、 やっと墨字が書けるようになったことをご報告した。

そして、今夜の代表団とのこ ともである。

 前年の12月19日に点字ワープロができたが、冬休みに入ってから、点字毎日 の牧田克介氏(現、日本盲人会連合情報部長)が、何かの取材で学校に来ていた。

 私は、これはよい機会と考え、牧田氏を点字ワープロの置いてある放送室に案内 し、初の点字ワープロの実演を見てもらった。

 正月休みをはさんだので、点字毎日の記事になるのは遅れた が、昭和57年1月24日号の同誌7ページに、点字による日本語ワープロの記事 として紹介されている。

 この点字毎日の発行される前のことである。

 和光大学附属小学校で統合教育を受けていた、全盲で小学校4年生の高橋しのぶ さんが、お母さんとともに学校に私を訪ねて来た。

誰に聞いたのであろうか。

 私はうれしかった。

 全盲の小学生に、六点漢字をワープロを使いながら、直接教えるのは初めてだっ た。

校内の小学部の生徒にもまだなかった。

 そこで、この親子を放送室に案内し、私は、六点漢字で最も簡単な、「新幹線」 の各文字など、音(おん)の末尾に「ん」の付く字を例に教えた。

 そして「新しい」の「しん」をまず書いてもらった。

すると点字タイプライター でキーに慣れているせいか、手速く書いた。

 その次に、「親」の「しん」、「神様」の「しん」も容易に書いた。

それならと、「森」と「林」の「森林」を書くように言った。

すると見事に自分で その2文字を組み立てて書いた。

 驚いたのはその後である。

 しのぶさんは、でも「『深い』と『林』の「深林」もあります。」と言って、自 らその「深林」も書いて見せた。

 視覚障害児で通常の学校へ通う統合教育の効果によるのか素質によるのか、しの ぶさんの国語力には驚いた。

 しのぶさんは、現カトリック点字図書館高橋秀治氏のお子さんである。

そして、 その後、東京外国語大学を卒業し、社会人になっている。

 私には、これも中国印刷代表の思い出とともに、点字による日本語ワープロ誕生 にまつわる、忘れられない思い出の一場面である。

 しのぶさんの印刷物は、今も私の手もとにある。

 そして、以後、放送室が、学校の生徒や校外の人の ワープロの勉強室であり、また見学室になってしまった。

 教員というものは、学校の中で自由になる空間は、極端に言えば、教員室の自分 に与えられた机の上だけである。

 しかし、思いがけないことから、ワープロを置き、それを教えられる空間ができ た。

 昭和40年代の中頃、日本は大学紛争など教育問題で揺れた。

 日本大学、早稲田大学、東京教育大学、東京大学なども、ストライキと教室占拠 のため、大学封鎖などをせざるを得なかった。

 これらの紛争の中でも東京大学の安田講堂の警視庁機動隊と占拠 学生との激しい攻防戦は、テレビで一日中実況放送されたほどである。

 昭和47年11月に、東京教育大学(現筑波大学)附属盲学校にも、この学園紛 争の嵐が襲った。

 その詳細について、ここでは触れない。

 私は当時、生徒会と放送同好会の顧問をしていた。

 そして紛争とともに生徒会は解散となり、放送同好会の活動も全くなくなってし まった。

 学校の連絡放送は、各階にある教員室のマイクロホンでできる。

そのため、放送 室が何年かほとんど使われなくなった。

 この学園紛争は、私が昭和47年当時に進めようとしていた、東京電気大学の伊 藤先生との点字研究を中止に追い込み、私に無念な思いをさせた。

 ところが、9年後には、私に点字ワープロを放送室に置かせ、そこでパソコンに よる点字ワープロの研究と教育を可能にする部屋を与える結果と なった。

(六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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