六点漢字の自叙伝 第28回、1999年2月、通巻第194号
− なぜか筑波大学附属盲学校の放送室で生まれた点字による日本語ワープロ −
私に最新のパソコンFM−8を、特別に早く譲ってくれることを約束してくれた 浜田氏は、秋葉原にパソコンショップも持つ、アスター・インターナショナルの社 長だった。
本格的に漢字の使えるパソコンFM−8(エフエム エイト)とは、「富士通」と 「マイクロコンピュータ」の頭文字を取り、それに、8ビットCPUの「8」を加 えて命名されたものである。
当時は8ビットのCPUが最先端のものであった。
FM−8は、本体とキーボードが一体となったものであり、価格は、本体だけで 21万8000円だった。
形と大きさは、横:50cm、縦:36cmで、最前部の高さが5cm、最後部の高さ が12cmの傾斜形だった。
このFM−8を入手しても、特別なROMを買わないかぎり、書ける文字は、半 角の英数文字と片仮名だけであった。
日本語ワープロとして使うには、全角の非漢字と漢字のROMを別に購入する必要 があった。
この漢字と非漢字のROMだけで4万円であった。
外部メモリーとしては、今では信じられないかもしれないが、音楽や視覚障害者 の読書などに用いるカセット・テープレコーダーが、パソコンのデータの記録機と してまだ現役だった。
ところが、このカセット録音機の機録は信頼性が低く、また非常に低速だった。
一方、当時として高速なものには バブルメモリー装置、5インチ・フロッピー ディスク装置、8インチ・フロッピーディスク装置などがあった。
私は日本語ワープロのプログラムのメモリー用に非能率な通常のカセット・テー プレコーダーを、使うことはできないと考えていた。
さりとて、5インチのフロッピーディスク装置は33万円で、本体の1.5倍も高 価なのである。
ところが、その当時うまいことにバブルメモリーというものがあった。
この装置は、ほんの短期間だけパソコンのメモリーとして使われたものである。
バブルメモリーのためのバブルホルダーユニットという装置の価格は、8万57 00円でフロッピーディスク装置の約4分の1の価格であった。
FM−8の本体右奥の上面に、横:22cm、縦:10cmの 蓋があり、その下の空間にバブルメモリーを差し込むようになっていた。
この装置に、タバコの箱より少し小さいバブルメモリー・カセットを2個差し込む ようになっていた。
つまりツードライブであった。
現在のフロッピーディスクに相当するメモリー容量は、1個で32Kバイトで、価 格は、3万5000円もした。
今日の1メガのフロッピーディスクに換算すると、フロッピー1枚が約140万円 ということになるから、実に現在の1万倍以上のメモリー価格である。
ディスプレイ装置は、カラーのものがモノクロの4倍も高かったので、4万86 00円のモノクロにした。
パソコン用の漢字プリンターはまだなく、半角文字用プリンターに、画面に書か れた全角のカナと漢字などを、画面の絵としてドット印刷するよう になっていた。
このシリアル・ドット・プリンターが、14万2000円であった。
これらの金額を合計し、細かいケーブル類などの価格を加えるとパソコン関係だけ で、最低約58万円になった。
システム全体としては、このほか、手作りで、RS232C接続の点字キーボード を加える必要があった。
昭和56年の8月末頃に、秋葉原の電機店からFM−8が入荷したという連絡が あった。
私は2セット分注文していたので、120万円の現金を持って秋葉原へ急いだ。
ところでその当時の買物風景は、現在のパソコン売場のそれとはおよそ違ってい た。
いわば、食糧難の戦争中から戦後にかけてのお米の配給所のような様相であった。
つまり、どうしても欲しい買手が多く、売手の方が威張っていたのである。
アスター・インターナショナルの秋葉原店の名前は、「コスモス」だった。
スポーツ用品店の2階にあって、私が行った時には、既に20人ぐらいの客が並ん でいた。
そして男の店員が、客の名前と注文票を確認しながら1人ずつ品物と現金を引き替 えていた。
秋葉原と言えば、電気製品の安売りであまりに有名である。
しかし、その秋葉原 で私が買ったパソコン2セット分は1円の値引きもなかった。
値引きのことより、この機械が速く買えたことを、私は社長の浜田氏に感謝しなけ ればならない気持ちだった。
初めての視覚障害者用日本語ワープロのプログラム開発を、誰が引き受けたかを ここで紹介しなければならない。
それは、富士通系の子会社であったパナファコムの技術者、佐藤亮(あきら)氏 であった。
佐藤氏は、会社でC160というワークステーションを設計・製作していた。
だ から、技術には信頼が置けた。
私は、7年前の汎用コンピュータ時代にも、良いプログラマーの協力が得られ たが、パソコン時代のプログラマーにも恵まれたのである。
学校の夏休みの最中に、まず、FM−8の入手に備えて、佐藤氏と点字キーボー ドの設計と製作に入った。
このパソコンと直接つなぐ点字キーボードは、今のノートパソコンを厚くしたよ うな大きさで、六個の点字キーと2個のスペースキーがついていた。
そのほか、6個の特殊キーがあり、パソコン本体とは、RS232Cケーブルでつ ながるようにした。
FM−8、2セットが手に入ると、私はその1セットを佐藤氏に預けた。
彼は会社が終わってから、パナファコムの寮でプログラミングと六点漢字のコーディ ングをしてくれていた。
昭和56年12月の学校が冬休みになる直前であった。
佐藤氏が、附属盲学校へバブルカセットのプログラムを持って来た。
そして、学校の放送室に置いてあったもう1台のFM−8に取りつけた。
その後、簡単なキー操作でプログラムを呼び出すと、ほぼ数秒後「ピーッ」という 長目の音でロード完了を知らせた。
その速さに私は感心し た。
そこで、早速、私は彼が作った点字キーボードで、六点漢字を使い、私と佐藤氏 の名前を書き、FM−8の印刷のためのファンクションキーを押した。
プリンターが軽やかに動き出し、そして、今のプリンターに比べれば、ゆっくり と、ゆっくりとワイヤードットの音を響かせながら、初めての印刷を行なった。
ちょうど7年前の同じ12月に、自宅で作った紙テープのデータにより、国会図 書館の電子計算機室で初めて墨字が書けた。
今度は、机の上で押した点字キーの六点漢字で、直接その場で、墨字が印刷でき るようになったのである。
これが私の目的だった。
その感動とうれしさは、7年前の時と同じだ。
ところで、なぜこの最初の実験が「盲学校の放送室」で行なわれたのか。
それに は思いがけないことが絡んでいた。
( 六点漢字協会会長・長谷川貞夫)