六点漢字の自叙伝(27)


六点漢字の自叙伝(第27回)1999年1月、通巻第193号

− やっと手に入れた漢字の使える初のパーソナル コンピュータ −

 昭和54年の初め頃は、まだパソコンという言葉さえ一般には知られていなかった。

小型になったが、コンピュータは、まだ数百万円以上するミニコンピュータやオフィ スコンピュータの時代であった。

 東芝による「JW−10」(ジェーダブリュ テン)という最初の日本語ワードプ ロセッサーが発表され、それがビジネスショーに出品されたのもこの昭和54年で あった。

 私は、その5年前の昭和49年に、既に点字キーを用い、汎用コンピュータによる 漢字入力の実験を行なっていた。

そこで、この東芝によるワープロを興味深く見学した。

そして、展示場にいた東芝の開発責任者の森氏から、詳しく話も聞いた。

 この最初の漢字も入力できる日本語ワードプロセッサーは、アップライトのピア ノほどの大きさで、8インチのフロッピーディスク装置がつき、価格は600万円以上 であった。

 このころは、まだ「ワードプロセッサー」を略した、「ワープロ」の語はまだな かった。

 私は、この頃何とか数十万円で、漢字の使える小型コンピュータが売り出されな いかと、ひたすら願い、待っていた。

 しかし、昭和50年頃からマイコンという言葉が、ごくわずかに、コンピュータ・ マニアなどの間で使われていたものの、漢字の使える小型コ ンピュータなどは、まだ夢であった。

 当時の様子を具体的に述べると、「月刊マイコン」(電波新聞社)の創刊が昭和 52年7月である。

 この「マイコン」の創刊される1ヶ月前の昭和52年6月に月刊「ASCII (アスキー)」が同じく創刊されている。

 この「ASCII」(American Standard Code for Information Interchange) とは、「米国情報交換用標準規格」の略称である。

だから、日本で言うならば、日 本工業規格の略称である「JIS」をそのまま雑誌の名前にしたようなものである。

このことは何を意味するだろうか。

 それは、真空管式による最初のコンピュータの「エニアック」発明以来、アメリ カが圧倒的にコンピュータ技術において進んでいるということである。

それは、Windowsなどで、これまでも綿々と続いてきた。

 昭和54年になって、私はやっとパーソナル・コンピュータと言う言葉を聞いた。

「パソコン」の語はまだなかった。

それらは、カナさえ使えないアメリカ製の「PET」(「ペット」、コムドール社)、 「TRS−40」(タンディー・ラジオ・シャック社)、「APPLE II」(「アッ プルツー」、アップル社)などであった。

 そこへ昭和54年中頃から、NECのPC−8001が、マニアの間で評判になっ た。

 これは、それまでのアメリカ製のパーソナル・コンピュータがアルファベット と数字などだけの、いわゆるアスキー・コードだけのものであったのに対し、JI Sの半角の仮名が使えたのである。

しかし、漢字が使えるまでにはなっていなかっ た。

 これが後継機の漢字の使えるPC−8801シリーズへとつながり、後に、あの NECの9800全盛時代を起こしたのである。

 PC−8001は、昭和54年の5月に、東京の平和島のマイコン ショーで発表され、「ASCII」誌上でも昭和54年7月号に紹介されている。

  しかし、電気街で有名な秋葉原の店頭に並ぶまでには翌年までかかった。

 若いマニア達は、それを用い、カセットテープに記録されたソフトでゲームなど を楽しんだ。

当時は、通常の録音用カセットテープがデータ記録の媒体だった。

 もちろんフロッピーディスク装置もあったが、本体のコンピュータの2倍程も高 価であったのだ。

 現在、国立身体障害者職業リハビリテーションセンターにおいて、情報処理の指 導をなさっている石田透氏は、このパソコンを、全盲として全く見事に使いこなし ていた。

 合成音声もピンディスプレイもない時代だから、数字、英字の大文字と小文字、 仮名文字などを、彼はビープ音で聞き分けていた。

そのビープ音は、モールス信号でもなく、点字式でもなく石田氏 固有のものだった。

その熱心さとプログラミングの実力には、私はただただ敬服するばかりであった。

 昭和56年の初め頃であった。

私の知り合いの紹介で、プログラミングのできるK氏が私の勤務している筑波大学 附属盲学校を訪ねて来た。

 シャープが漢字の使えるようになるはずのパソコンを近く発売するので、それを 使い点字によるワード・プロセッサーを作ってくれるという話であった。

 そのパソコンは、本体、ディスプレイ、フロッピーディスク装置、プリンターの フルセットで70数万円であった。

 私は、彼を信じてMZ−80Bという機械を購入した。

 しかし、幾ら待てども、シャープからは、フロッピーディスクによる漢字フォン トの提供はなく、全く無駄な買物になってしまった。

 K氏の善意はよくわかっていた。

私は、彼を責めるつもりは全くない。

むしろ、その申し出に今でも感謝しているほ どだ。

 東京駅の前に「パソコン道場」という教室を開いた「システムズ・フォーミュレ イト」という会社があった。

 社長は渡辺昭雄氏で、ここが富士通と共同でBUBCOM(バブコム−80)と いうパソコンを発表した。

 私は藤芳衛氏とこれを見に行った。

 このコンピュータの特徴は、磁気バブルメモリーという、今で言えば、機械的に 動かずにデータを読み書きできる不揮発性メモリーと、8インチディスク装置を持 つものであった。

 漢字フォントはバブルメモリーとフロッピーディスクに、分けて持たせる予定と いうことであった。

価格は、8インチフロッピーディスク装置を含め、97万円であった。

魅力はあったが、肝心の漢字フォントはまだ入っていなかったので、シャープで懲 りていた私はそれを買わなかった。

 昭和56年5月に、東京の平和島でマイコンショーが開かれた。

 私は、漢字の使えるパソコンが発表になるか強い関心があったのでこのショーを 見に行った。

 一際人だかりが多く、賑やかなコーナーがあった。

それは富士通が新発売したFM−8(エフエムエイト)という漢字の使えるパソコ ンの展示場であった。

 漢字が使えるといっても、そうするには、本体と共に漢字フォントの入ったRO Mという部品を別に買うのである。

これなら会社が漢字の提供を保証しているのだから、今度こそは大丈夫だと思い、 見学後、秋葉原の店に注文した。

 しかし、入手できるのは、10ヶ月先の昭和57年3月と言われた。

 私はこれを何とか早く入手する方法がないかと考えた。

 以前に、日本点字図書館で、電気機具類などの卸業を行なっている浜田氏という 社長に会ったことがある。

 思い切って、その社長に頼んでみることにし、電話した。

すると8月末ごろに優先的に提供できるという返事があった。

私は、嬉しさに思わ ず小躍りした。

 こうして手に入れたFM−8にプログラムが入り、昭和56年12月19日に、視覚障 害者用日本語ワープロ第1号機が誕生したのである。

    (六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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