六点漢字の自叙伝(26)


六点漢字の自叙伝(第26回)1998年12月、通巻第192号

− 絶望的環境に陥った点字の実験と救いの恩人 −

 前回は、差別語の「めくら」を、汎用コンピュータを用いた六点漢字の自動代筆(点字キーによる日本語ワープロ機能)による請願で、内閣告示の「常用漢字表(案)」から、その語を削除することに成功したと述べた。

ところがこれを最後に、それらの汎用コンピュータは使えなくなってしまったのだ。

それには、4つも重なる仕方のない事情があった。

 私が何カ所かで、ご好意により利用させていただいた、汎用コンピュータというものは、昭和50年ごろにおいては1台数億円もした。

それで、到底個人で所有するものではなかった。

 だから国などを含め、ほとんどの利用機関は、月ごとに使用料を払うレンタル機を使っていた。

 それで、そのコンピュータを上位機能にするため、1年ごとぐらいにシステムアップがなされていた。

 すると、それまでのプログラムは、そのままでは動かなくなってしまう。

 だから、システムアップごとに、自動代筆ができなくなった。

 この度々のシステムアップがなければ、紙テープに、六点漢字コードを記録したデータを届けさえすれば、何カ所かの汎用コンピュータで、オペレーターに、そのデータから通常の印刷物にしてもらえた。

そのシステムアップされたコンピュータを使えるようにするには、プログラマーによる修正作業が必要だった。

 国会図書館の日立HITAC機のプログラマーは、東京大学の点訳クラブ「点友会」時代からのボランティアであった辻畑好秀氏だった。

 しかし、大学卒で入社後3年目を迎え、日立製作所の勤務が忙しくなり、そう度々、無理なお願いはできなくなった。

 一方、東京大学のコンピュータと東京JPの漢字を含む日本語を出力できる富士通電算写真植字機を用いていた、東京大学電子工学科の根本幾氏と田中剛氏は、昭和51年3月に博士課程を終えた。

そして、就職し、事実上ボランティアの継続は不可能となった。

 電子技術総合研究所は、国の筑波研究学園都市計画で国立研究所のため、同地区へ移転することになった。

それで、昭和52年の途中から、少しずつ筑波地区へ移転が始まった。

 そのため、自動点訳を行なっていた東京都田無市(現、西東京市)の同研究所の矢田光治氏と田中隆氏は、昭和52年までで自動点訳ができなくなった。

 しかし、永田町の国会議事堂の近くにあった同研究所の本部は移転が遅れていた。

 それで、言語処理研究部の坂本義行氏が、わずかな期間だけその後も東京で、言語処理としての点字による漢字を含む日本語入力の研究を続けて下さっていた。

 前にも述べたが、文部省が障害者短期大学構想(現、筑波技術短期大学)を発表した。

 その設立準備室の置かれた筑波大学と、その短期大学構想に絶対反対の立場をとった附属盲学校の多数の職員とは激しく対立した。

 短大推進側が、同短大計画から音楽科を削除せざるを得なかったのも、その反対理由に押されてのことであった。

だから、現在、筑波技術短大には音楽科はない。

 その障害者短期大学準備室に、以前から点字に関心を持たれ、私に協力して下さっていた筑波大学教授のN先生がおられた。

 先生は、筑波大学におけるコンピュータ利用の中心である学術情報処理センター長でもあった。

 だから、同センターは、岡崎氏の国産点字ラインプリンター第1号機を、昭和51年に購入することもできた。

 障害者短期大学構想の発表される前は、私はN先生のところへよく行った。

 そして東京教育大学附属盲学校が、1、2年後の昭和53年度から、筑波大学附属盲学校になる予定なのであるから、点字の研究にはとてもよい環境になると期待していた。

 ところがである。

皮肉なことに、次々と汎用コンピュータが使えなくなる中で、その代りにと期待していた、当時国内で最高性能のコンピュータを持つ、筑波大学学術情報処理センターと連絡さえできなくなった。

 もし、連絡すれば、日ごろ世話になっている職場の同僚達に対する大変な背信行為になると考えた。

反対運動は、それほど激しかった。

 私はこの上なく苦しい思いだった。

そして口惜しかった。

 昭和54年には、また残念なことが起こった。

 日本コンピュータセンターのプログラマーの足立氏が、家のご事情で同社を退社し、九州のご両親の下へ帰ることになったのだ。

 足立氏が去り、やはり日本コンピュータセンターも使えなくなった。

 そんな絶望的気持ちになっていた私にとって、実に有難い方が現われた。

 それは、金沢工業大学情報処理学科の水野舜先生と、後に水野先生と協同研究するようになった金城短期大学の下村有子先生であった。

 水野先生は、私が最初の自動代筆実験を日本ME学会で発表した昭和50年4月に、その発表を見られたのか、あるいはそれが掲載された新聞記事を読まれたのかもしれない。

 金沢から東京・練馬の私の家まで、研究発表で紹介した点字データタイプライターを見に来られた。

 そして、その後も学生の研究テーマに点字を取り上げ、先生と紙テープの往復などで連絡が続いた。

 しかし、大学に漢字プリンターが最初はなかったせいか、研究内容は、カナ文と点字の相互変換であった。

 当時は、ほとんどの大学に漢字プリンターはなかった。

 その後、金沢工業大学に漢字プリンターが入った。

そして、その漢字プリンターによるテストプリントが送られて来た。

 漢字のフォントは先生のところで作られたのだと思う。

 ちょうどその頃、A(アルプス)電機という会社のK(木村)氏が点字による漢字入力に関心を持ち、学校へ訪ねてこられた。

漢字プリンターは大分安くなったということであったが、価格は400万円以上だった。

やっと漢字プリンターが、それでも安価といわれる4百万円台で買える時代になったのである。

 水野先生の大学の漢字プリンターは、そのA社のものと思えた。

 水野先生のところに漢字プリンターが入ったのは、絶望していた私にとって大きな幸いであった。

 それからは、以前のシステムに代り、金沢工業大学と六点漢字を含む紙テープデータの交換が行なわれるようになった。

 その後、水野先生と下村先生が点字情報処理と点字図書館業務の自動化に果された業績は大きい。

 点字図書館などから皆さんの所へ、毎日のように送られて来る図書類のコンピュータ管理にも、その恩恵があるのではないだろうか。

     (六点漢字協会会長/長谷川貞夫)

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