六点漢字の自叙伝(第22回)1998年8月、通巻第188号
東洋ハイブリッド製点字装置までの14年間の空白
前号で述べたように、岡崎氏による国産で最初の点字ラインプリンターは、昭和51年度中に金沢工業大学と筑波大学(筑波大)学術情報処理センターに納品された。
当時の筑波大学術情報処理センター長は中山一彦先生であった。
先生が点字に関心を持たれていることを知り昭和50年に、2年前に新設されたばかりの筑波大へ先生をお訪ねした。
その際、先生が点字についての実験をして下さりそうに感じたので、点字ラインプリンターを開発中の岡崎氏をご紹介しておいた。
そのような経緯で、点字ラインプリンターが筑波大に納入されたのである。
現在の筑波大附属盲学校は、昭和53年4月から筑波大の附属になったのだから、当時は私の勤務校は、まだ東京教育大学附属盲学校であった。
私はその筑波大に納められた岡崎式点字ラインプリンターにより、点図で漢字の形の印刷をお願いした。
漢字を含む墨字の文を、そのまま点図として触覚で読めるようにするのも私の実験目標の一つであった。
それを行なうには、文字の形をコンピュータのディスプレーやプリンターで表わすために必要な文字フォントがなければできない。
中山先生のところには、その漢字印刷のできる文字フォントが既にあったのである。
現在ならどんなに安価なワープロも、それよりはずっと進んだフォントを持っているが、当時は漢字の文字フォントを備えている汎用コンピュータは、まだ少なかった。
昭和52年2月のことである。
私のところへ、点字本が10冊ぐらい入る大きさのダンボール2個が送られてきた。
それぞれの中味は、明朝体とゴシック体で印刷された点字図形であった。
点字用紙の各1ページに上下左右の形で4文字ずつ点図で漢字が印刷されていた。
24ドットの点字印刷であるから、元になった墨字のフォントが、現在のような高品質のものではないが、点図で縦線が太く、横線が細いという明朝体の特徴と、縦、横の線が一様な太さであるゴシック体の特徴がよくわかった。
製本されていない点字用紙約750枚ずつのこの資料は、今も大切に保存してある。
その4年後の昭和56年に、初めて漢字の使えるパソコンとして、富士通のFM−8(エフエムエイト)が発売されたが、それは画面に16ドットで漢字を含む文字を表示するものであり、印刷は、画面の通りの文字パターンを印字する方式であった。
そのため文字の線がギザギザに見え、パソコンの文字は到底和文タイプの文字には及ばないと言われたものである。
ところが、その4年前の昭和52年に私の所へ送られてきた点図の漢字は24ドットの印刷物であり、それも明朝、ゴシックの2書体であった。
筑波大が新設大学として、いかに最新の情報処理装置を設備していたかがわかる。
またJIS漢字コードは、翌昭和53年からJIS C6226(現JIS X0208)として制定されたが、点図の配列からみると、筑波大はそれが正式に制定される以前から、JIS漢字コードを使っていたことになる。
点図における漢字の文字数は両書体ともJIS第1水準漢字の2965文字の全部であった。
私は中山先生に点字ディスプレーの必要性もご説明した。
そして私の構想を簡単な図にしてお渡しした。
その特長は、点字ディスプレーの各々のマスの上に「マスカーソル」という指先で押す小さなスイッチを設けることであった。
その目的は、点字を読んでいてあるマスで、挿入、削除などの修正の必要に応じて、そのマスをコンピュータに伝え、点字カーソルの位置を、そのマスに容易に移動するためのスイッチであった。
その頃は、アメリカにさえパソコンはまだなかった。
だから点字ディスプレー付きデータ作成装置、または、汎用コンピュータのオンライン点字端末装置として考えたものである。
私はそれ以前に、何かの展示会でフランス製の「エリンファ」という点字ディスプレー装置に触れたことがある。
正確には覚えていないが、1行のマス数が、12マス程度だったと思う。
しかし、それは展示会に出品されただけで、遂に商品として日本に入ってこなかった。
この装置を実際に見た日本の視覚障害者は少ないと思うが、点字ディスプレー装置として、実物が日本に紹介されたのは、これが最初だと思う。
その意味で重要である。
アメリカ製の「バーサブレイル」という装置があった。
初期のものは、デジタルカセットが付いていた。
そして、主たる機能は、点字文を点字のピンで表示する読書機であった。
また各マスには、前述のようなカーソル位置を移動させるようなスイッチは付いていなかった。
その後、かなり遅れてパソコン時代になってから、「タッチカーソル」等の名前で、各マスにスイッチの付いた点字ディスプレー装置が、何種か発売されるようになった。
しかし、私は昭和51年の段階で、その各マスにカーソルをスイッチで移動させる案を既に持っており図にしていたのである。
私は筑波大学術情報処理センターの中山先生の方で、私の希望も入れて点字情報処理の開発が、かなり進められるものと期待していた。
ところがである。
文部省の障害者短期大学構想が発表され、附属盲学校がそれに反対の立場をとるようになった。
反対理由はここでは省略するが、反対運動はかなり激しいものであった。
そして、その障害者短期大学の設立準備室が筑波大に置かれた。
さらに中山先生が、その設立推進の担当になられた。
私は筑波大と附属盲学校との板ばさみになってしまった。
こうなっては私が筑波大と連絡をとりながら、点字の研究を進めることができなくなった。
そのため昭和52年の後半頃から、非常に申し訳ないことであったが、私は全く中山先生と連絡をとらなくなった。
短大新設の賛否は別として、私にとって、それは非常につらいことであった。
それから約14年後の平成の時代になって、東洋ハイブリッド株式会社から、点字ラインプリンターと点字ディスプレー装置が発売された。
それは、同社が筑波大から開発を依頼されて製造したものであった。
点字ラインプリンターは、岡崎式の騒音が大きいところが見事に改良してあり、点字ディスプレーは、マスカーソルが付いていた。
その時、岡崎氏は、昭和60年12月に既に亡くなられていた。
(長谷川貞夫)