六点漢字の自叙伝(21)


 六点漢字の自叙伝(第21回)1998年7月、通巻第187号

    高速点字読み取り装置と高速点字ラインプリンターの開発

 前に述べたが昭和48年に、日本点字図書館(日点)が三菱財団から財団の発足事業の第1号の援助として、「点字カセットシステムの開発」で助成金を受けた。

 具体的な開発は、芝浦工業大学(以下、芝工大)の入江正俊先生と東京工業大学(以下、東工大)の長谷川健介先生による指導で両大学の学生が別々に工作しながら開発が進められていた。

 昭和51年の春に、その研究成果の発表が、まず芝工大に三菱財団の理事を招いて行なわれた。

 紙に書かれた点字の凸点をデータとして読み取り、それを点字印刷コードにして再び同じ点字に印刷するところをお見せするのである。

 点訳奉仕者などにより作られた、その1冊だけきりない点字本を、複製するのが目的であった。

今日のようなパソコン点訳がまだない時代に、点字本の製作を大きく点訳奉仕者に頼る日点としては、点字の凸点を読み取り、それで複製本を作ることは重要な開発テーマであった。

 当時はまだパソコンがなかったのだから、コンピュータと離れた所で使える、紙テープを介して動く点字データタイプライターが是非とも必要だった。

 芝工大で読み取った点字データを、再び点字コードにして、紙テープまでへの出力をすることはできるようになったが、肝心のその紙テープデータで点字印刷する装置が、まだ開発されていなかった。

そこで、私の所にあった岡崎式点字データタイプライター第1号機が使われることになった。

 ここにおいても、岡崎氏による点字データタイプライター1号機の存在価値は、点字の歴史において大きな意味を持つのである。

今となっては、その機械は全く実用的価値はないが、それは、ちょうどエジソンの最初の蓄音機のようなものだと私は思っている。

 実験は成功し、研究費を提供している三菱財団の方々は満足されたようであった。

そして、この実験により日点は三菱財団から、その研究費の継続が認められたのである。

また、その実験で点字データタイプライターの使用料として、私に思わぬ謝金が日点から支払われた。

自費で六点漢字、自動代筆、自動点訳という独自な研究を行なっていたその頃の私にとって、それは非常にありがたい資金であった。

 芝工大の実験の直後に、東工大の長谷川健介先生の方でも点字読み取り装置の開発状況の発表があった。

 こちらは三菱のミニコンピュータであるMELCOM(メルコム)−85というシステムを用いていた。

 芝工大における日立のHITAC-10(ハイタックテン)のように、当時はミニコンピュータを研究に導入するのが有力な研究手段であった。

 東工大の方式は、点字1ページのデータをCCDという当時としては最も新しい光電素子で読み取ってしまい、その結果を点字データとして紙テープに打ち出してくるものであった。

 芝工大の読み取り速度を点字1ページとして測っておかなかったから正確な比較はできないが、東工大のものは、1ページが約10秒という何倍も速いものであった。

 この開発は、大学院修士課程における制御工学科学生の研究テーマでもあった。

そこで長谷川健介先生から私に依頼があった。

それは、東工大で開発した点字読み取り装置を応用し、その点字読み取り結果を用い、六点漢字体系による自動代筆で墨字に変換して欲しいということであった。

 私はうれしかった。

前にも芝工大で、私が六点漢字体系により書いた3行の点字を読み取り、1行の墨字に変換したことがある。

それはたった1行でも、最初の実験という意味があった。

 今度はそれよりもずっと長い点字自動読み取りに関する研究論文の資料である。

 早速その墨字原文をいただき、パーキンス点字タイプライターで、六点漢字を含む点字文にした。

その点字文を東工大の学生に渡し、それが点字コードの紙テープデータになって戻ってきた。

 そしてそれを自動代筆システムで、墨字に変換し、修士論文資料の一部として添えたのである。

 これは修士論文であるから東工大の図書館など、どこかに保存されているはずである。

私は、いつか機会があったら、20年以上も昔に実験した、パーキンスの点字から墨字になった資料の載っているその論文を見に行きたいと思っているが、まだ実現していない。

 昭和51年4月頃だったと思う。

都立工業技術センターの平塚尚一氏が点字プリンター試作と、点字ラインプリンター構想の発表を行なった。

 平塚氏の点字プリンターの特長は前に紹介したが、点字ラインプリンターにも独特なアイディアがあった。

それは船底式というものであった。

 点字1行を1度に紙に凸点として印刷するには、瞬間的に非常に大きな力が要る。

そのため音も衝撃的となり大きくなる。

 そこでピンの受け側を船底形にし、往復に転がし、小さな力で静かに点字印刷を高速に行なうという構想であったと私は理解している。

 平塚氏の点字ラインプリンターは、最終的には、今日の、点字プリンターメーカーであるJTRのESA300として結実した。

 それは点字の上・中・下段の1行分を印刷するようになっているから、点字1ページの印刷速度が約5秒と極めて高速である。

現在、国産の最も高速の点字プリンターになっている。

そして、最初の構想であった船底式でなく動いているようである。

1行分を印刷する力と騒音の問題は、別の方法で解決したのであろう。

 専用の点字ラインプリンターについては、岡崎氏も昭和51年頃から開発を進めていた。

それは私の提案によるものであった。

 前にも述べたが、以前から点字ラインプリンターの必要性を日点の本間先生にも申し上げてきた。

 私が考えていた方法は、点字の点の横1列、すなわち1、4の点の32マス分の64点を同時に印刷するものであった。

それを3回動作することにより1行の点字になるのである。

また行間を空けなければ凸点の点字図形が描けるのである。

 そして、この方法で開発された点字ラインプリンターが、昭和51年度中に、金沢工業大学と筑波大学学術情報処理センターに納入された。

だから専用の点字ラインプリンターとしては、岡崎氏のものが国産の最初と言える。

しかし、これらは非常に音が大きく、また点の出し方の力が弱いなど、かなり改良を必要とするものであった。

岡崎氏は試作は速かったが、製品の完成度が低かったのが惜しいところである。

実用的な装置の開発者というより、むしろ、アイディアが先に立つ、いわゆる発明家タイプの人であった。

もどる