《六点漢字の自叙伝》(19)1998年5月、通巻第185号
−やはり欲しかった点字ラインプリンター−
前号において、点字カセットシステム開発研究会という、日点を中心とするグループが誕生したことを述べた。
そのメンバーは、研究グループ代表の東京工業大学長谷川健介先生、技術担当の芝浦工業大学入江正俊先生、日点の本間一夫館長、同、花島宏氏、それに視覚障害者としては、尾関育三、木塚泰弘、田中徹二、直居鉄の諸氏と私だった。
研究テーマが決まる前に、本間先生からテーマの問い掛けがあったので、私は点字ラインプリンターを開発することを提案した。
それは岡崎氏のプリンターのプリント速度があまりにも遅かったからである。
しかし、日点としては「点字カセットシステム」のテーマを選んだのである。
テーマを決めたのが昭和48年であったから、もしも点字ラインプリンターをテーマとし、その開発に成功していたら、現在におけるジェーティーアールのESAプリンター以上に、日本中の点字プリンターが日点開発式のものになっていたかもしれない。
以前にも述べたが、この研究会における目的の一つは、初期のバーサブレイルのように、デジタルカセットテープを用い、ピンが上下して点字を構成する、点字ディスプレイ式読書機を開発することであった。
もう一つの目的は、点訳奉仕者により作られた点字書の点字を光学的(ひかり)に読み取り、そのデータで、1冊きりない点字書を何冊にも複製することであった。
その点字読み取り装置の試作機製作が芝浦工業大学の入江先生の方で進み、昭和50年12月にグループ員を対象とする試作機紹介の発表があった。
それは、紙に書かれた点字を見事に読み取り、読み取り結果を紙テープに出力した。
しかし、その研究室には点字プリンターがなかったので、その結果を点字印刷することはできなかった。
その時点において、日本では、加動する専用点字プリンターは、私の所有するものだけであった。
だから、能率的な点字ラインプリンターの開発が、必要だったのである。
コンピュータはHITAC−10(ハイタック・テン)というミニコンピュータであった。
メモリーは4キロワードを8キロワードに増設してあった。
周辺装置にもよるが、価格は400万円ぐらいではなかったろうか。
勿論、活字式プリンターはあったが、漢字を印刷することはできなかった。
点字の読み取りは、点字の行の方向に、発光ダイオードと受光ダイオードを対にして数個並べ、点字1点を復数の素子で読ませるものであった。
私はその席上で考えた。
ここで私がパーキンスタイプライターで点字を書き、それをこの実験装置で読ませて点字データにして紙テープに出力して、それを国会図書館で墨字にできないかということであった。
私は早速申し出て、パーキンス点字タイプライターで、六点漢字を使いながら、「これは紙に書かれた点字を光学的に読み取り普通の文字に変換したものです。」
と書いた。
そして、その点字をその装置で読ませた結果1点の読み取りミスもなかった。
そこで私はその紙テープを持って年内に国会図書館へ行き墨字に変換した。
その変換結果は雑誌「コンピュートピア」昭和53年9月号「点字情報処理における自動点訳・自動代筆」の[写真2]として記録されている。
一方、電子技術総合研究所の自動点訳研究は、同研究所の中島恒夫氏と都立工業技術センターの平塚尚一氏とで進められた。
この自動点訳実験で対象とした資料は、まず「当用漢字音訓表」であった。
これは昭和48年に内閣告示されたものであるが、それを国立国会図書館が漢字入力してあった。
その磁気テープデータを利用させてもらったのである。
この自動点訳に使った電子技術総合研究所のコンピュータは、FACOM230/75という当時としては国産コンピュータの最大級のものであった。
とは言うものの、今で見れば、内部メモリーが、たったの256キロワードであった。
その「当用漢字音訓表」約5万字の点訳処理時間が、14秒程であったと聞いて、その速さに驚いた。
点訳結果は紙テープ3巻ぐらいだった。
丁度その時、平塚尚一氏の試作点字プリンターができ、そのプリンターの耐久試験も兼ねて点字印刷して下さった。
平塚氏は、この「当用漢字音訓表」を立派なバインダー4冊に製本して下さった。
前に述べたが、共同通信社の新聞印刷用データを用いた六点漢字による自動点訳と、国語研究所が行なった、教科書をコンピュータで全文カナ文にしたデータからの、自動カナ点字点訳がある。
この二つは最初の実験としての意味があった。
それに対し、この「当用漢字音訓表」は、私が実用的に用いたものであり、実用のための点訳という意味での価値があった。
この印刷を行なった試作点字プリンターが後のESA点字プリンターシリーズになったのである。
ここで点字ラインプリンターについて触れてみよう。
専用の点字プリンターが開発される以前に、コンピュータのプリンターのピリオドなどの点を使って点字を印刷する試みがあった。
私が知る範囲では、現在声楽家として有名な塩谷靖子(しおのや のぶこ)さんが、昭和46年に日本ユニバックに、日本で初の全盲のプログラマーとして勤務した。
そして実用的に通常のラインプリンターによる点字印刷物を用いたのが、兼用ではあるが、ラインプリンター利用点字の最初である。
通常の点字よりは読みにくかったが、仕事の実用に耐えられたとのことである。
この方法は、すでにアメリカでは行なわれていたらしいが、デニムという木綿の厚手の生地とラインプリンターの活字ドラムの間に紙をはさむ。
そしてアポストロフィー、コンマ、ピリオドなどの点で、ソフト的に点字を構成し、点字を印刷するのである。
いかにもコンピュータ会社らしい方法である。
活字ドラムとは、太目の茶筒を長くしたようなものであり、その円周にアルファベット、数字、記号などの活字がある。
もし1行の文字数が80字なら、この活字の輪が80本あるようになっている。
ドラムはものすごいスピードで回転し、印刷すべき文字の活字が丁度来たところで、ハンマーが動きインクリボンで文字が印刷される。
点字の場合は、点が押し出されるようにデニムの生地をはさむのである。
私は昭和50年に岡崎氏と再会してから、点字を1マスずつでなく、1行ずつ印字する専用の点字ラインプリンターを提案した。
その結果はいろいろな形で後に現れた。