六点漢字の自叙伝(18)


 《六点漢字の自叙伝》(第18回)1998年4月、通巻第184号

        −ESA点字プリンターシリーズの芽生え−

 ここで誠に残念なことをお知らせしなければならない。

それは高知システム開発の北川紀幸(もとゆき)先生が2月9日に亡くなられたことである。

先生は、高知県立盲学校在職中から、AOK日本語ワープロの開発に当たられた。

この連載においても昭和58年の項で先生をご紹介する積りであった。

いずれ詳しくご紹介はするが、本当に残念なことである。

慎んでご冥福をお祈りいたします。

 さて前号からの続きになるが、昭和50年頃としてはまだ珍しかったコンピュータ雑誌「コンピュートピア」の昭和50年10月号に私のことが紹介されていたようである。

内容からみて、その年の4月に、私が日本ME学会で研究発表したことを報じた朝日新聞の記事からの引用であったようである。

 その雑誌記事を見て、10月末頃に電子技術総合研究所電子計算機室長の矢田光治(やだ みつはる)氏と、東京都立工業技術センターの平塚尚一氏が私を訪ねて来た。

現在専門としているコンピュータ技術で、障害者を援助することができるかという相談であった。

平塚氏は、4月の朝日新聞の記事を見て、一度は附属盲学校へ私を訪ねて来ていた。

折悪しく、その時、私が不在で平塚氏に会えなかった。

 その来訪における話の結果、自動点訳プログラムと点字プリンターの開発を、具体的に進めようということになった。

 点字プリンターの見本については、10月9日のNHKのワイド番組「スタジオ102」での放送以来、丁度、附属盲学校の放送室の隅に、岡崎式点字データタイプライターが置いてあった。

その点字データタイプライターは、正直なところプリント速度が遅く、また音が大きかった。

それらを改良した試作機が昭和51年春までに作られた。

これも紙テープで動いたものである。

 それは試作機であったが、プリント速度は早く、また音も静かであった。

 そのプリントの方式は、細い金属性のチューブの中を、ワイヤーがピストン運動のようにわずかに往復し、点字を印字するものであった。

チューブとワイヤーのセットが3本あり、1マスを2度の打点で構成させる方式であった。

また、チューブは、柔軟で弾力性があり、点字の行頭から行末まで自由に動く長さのものであり、ワイヤーを駆動する動力源はモーターであった。

この実用機がESA731となり、現在の「ジェー・ティー・アール」から発売された。

 ESA731の特長は、点字キーがついていて、RS232Cで通信回線を通して他のシステムと情報交換ができることであった。

このRS232Cがついているところが岡崎氏のものと決定的に違うところであった。

RS232Cのポートがついていることは、他のコンピュータシステムと直接に接続したり、今日のパソコン通信のように通信回線を通して交信することができるのである。

さすが、コンピュータ専門家の作である。

 このESA731は、現在職業リハビリテーションセンター職員の石田透氏が千葉電子計算センターに勤務していた昭和57年の頃、仕事に多く使っていた。

また平塚氏から、石田氏の使用により、改良点を指摘してもらい、大いにプリンターの改良が進んだと聞いたことがある。

また、筑波大学附属盲学校の遠藤利三教諭も平塚氏の開発に協力していた。

 このESA731の点字キーボードを取り去り、ESA721とした点字プリンターが、音が静かで故障が少ない機種として、全国的に普及した。

そして、この機械が、日本アイ・ビー・エムが誕生させた「てんやく広場」など今日のパソコン点訳の基礎を築いたと私は思っている。

しかし、昭和51年春の時点では、まだ試作機であり、私の自動点訳で耐久性の実験を行なっていたのである。

 昭和50年12月に、もう一つ忘れられないことがある。

それは、パーキンスタイプライターで書いた点字を機械が読み取り、そのデータから墨字に変換する実験を行なったことである。

この点字を機械で読み取る部分はグループの研究であり、決して私のものではない。

 三菱財団が、昭和48年から社会福祉事業を援助することになった。

確か初年度の予算は5千万円であった。

その助成金に日本点字図書館が応募し、何件かの応募とともに日本点字図書館の申請が認められたのである。

 その研究テーマは、「点字カセットシステムの開発」ということであった。

「カセット」などというと今更何だということになるかもしれないが、当時はコンピュータデータを記録するには、紙のテープかカード、またはオープン録音テープの幅2倍ほどの磁気テープに記録するより仕方がなかった。

ところが、ミニコンピュータが出現し、デジタルカセットテープが、新しい情報媒体として脚光を浴び、実用化されるようになった。

そのカセットテープに点字データを記録し、ピンディスプレイで本を読むようにしようというものであった。

後にアメリカから入ってきたカセットテープによる初期のバーサブレイルの日本版ということになる。

しかし、日本点字図書館の最終的目標は、点訳奉仕者により作られるただ1冊だけの点訳書を、何とか複製することであった。

それには、紙に書かれた点字を機械で読み取る。

その点字データで点字プリンターにより点訳書を何冊にも複製することであったと思う。

しかし、現在となってみれば、パソコン点訳でその目的は果たされている。

ところが当時は現在のことが予想できなかった。

そこで日点を中心として、「点字カセットシステム開発研究会」が発足した。

この研究会が発足するには基になった会がある。

それは、現日本点字図書館長の田中徹二氏が東京都立心身障害者福祉センター職員の頃、田中氏が中心となり「視覚障害保障機器開発研究会」を発足させていた。

最初は、視覚障害者の歩行を助ける超音波歩行メガネのようなことをテーマにしたが、丁度、日点に対する三菱の基金からの援助があり、テーマに合わせ「点字カセットシステム開発研究会」となった。

そして中心となる開発研究者として東京工業大学の高井先生を迎えたが、その後間もなく亡くなられたので、新たに同大学の長谷川健介(けんすけ)先生と芝浦工業大学の入江正俊(まさとし)先生を迎えて研究を続けることになった。

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