六点漢字の自叙伝(17)


 《六点漢字の自叙伝》(第17回)1998年3月、通巻第183号

      − 恩人加藤善徳先生の励ましと岡崎止郎氏の復活 −

 昭和49年12月に2カ所で自動代筆実験を行ない、昭和56年12月にパソコンで日本語ワープロを作るまでに7年を要した。

そしてその間に、新しい点字プリンターの開発と自動代筆による国語審議会への差別語撤回要求など、今日につながることがいろいろとあった。

日本ME学会における自動代筆の発表が、朝日新聞で報じられてからのことである。

 私が日本点字図書館へ図書を借りに行ったおり、同図書館理事の加藤善徳先生から声をかけられた。

先生は人目に立たぬところへ案内され、遠慮がちに「これは少ないですが受け取り下さい」とおっしゃりながら、のし袋を手渡された。

私の研究費として使うようにとのことであったが、それは当時の月給3カ月分ほどにも相当した。

思いがけなくもあり、申し訳ないことであったが、せっかくのご好意なので、ありがたくいただいた。

そして研究に役立つように、感謝しながら使った。

日本ME学会で発表し新聞で報道されたものの、一部の人々を除き盲教育関係者や視覚障害者からの理解を得られず孤立していた私は、このことにより大いに励まされた。

 話はそこから19年溯る。

以前にも触れたが、私がまだ学生だった頃の昭和31年に日本点字図書館を訪ね、同図書館に「日本で最初の録音テープによる図書を作っていただきたい」とお願いした。

その時にお目にかかったのが加藤先生である。

しかし、その頃は同図書館の経済状況が悪く、私の提案は受け入れられなかった。

それで日本キリスト教奉仕団が、日本で最初の録音テープ図書を作るという経緯になった。

 その後、日本点字図書館も録音テープ図書サービスを始めたが、それは急速に普及し、貸出数は数年にして点字図書を越えてしまった。

加藤先生の頭には、やむなく私の提案を断った時のことが強く残っていたのだと思う。

先生は真の社会教育家であり、視覚障害者の将来を考え、本間館長(現・理事長)を陰で支えてこられた。

先生なくして今日の日本点字図書館はないと私は思っている。

亡くなられて久しいが、私は先生のあの優しいお声を思い浮かべると、今でも胸が熱くなる。

 昭和50年7月頃である。

岡崎止郎氏とやっと連絡がとれるようになった。

岡崎事務機研究所の倒産で、氏は3年ほど身を隠していたのである。

一方、その頃私は自動点訳、自動代筆実験を行なわなければならず、氏がいないため点字データタイプライターを故障させないようひどく心を砕いていた。

その苦労がなくなった頃、やっと岡崎氏に会えたのだが、それでも嬉しくまた安心することができた。

 岡崎氏がどのようにして身を潜めていたかは知らないが、彼は点字データタイプライター3号機を保存していた。

倒産する直前に50台分の部品を用意し、そのうち2台だけが組み立てられ、私の手元へ来た。

しかし、残る48台分の材料は給料未払いのため倒産後、従業員が10万円でスクラップとして売ってしまったと聞いていた。

ところが、なお一台を製品化していたのである。

岡崎氏は、日本タイプライター株式会社を辞してまで作った自分の会社の製品を、何とか残しておきたかったのである。

技術者の機械に対する愛着であろう。

 私は早速その3号機も譲ってもらった。

この3号機では点字プリンター付属のキーで点字を書きながら同時に紙テープにパンチできるのであった。

1号機の場合は、専用のキーで紙テープに一旦パンチし、次いでそのテープで改めて点字プリントする仕組になっていた。

また1号機はトランジスターが使われていたが、3号機はICに改良されていた。

しかし、この機械も完成していたわけではない。

夏の暑い日に紙テープで点字印刷をしていたら、プリント速度が段々と遅くなり、やがて止まりそうになった。

私は機械のICが過熱したためと直感した。

そこで急いで扇風機の風をIC部分に当てたら、速度はすぐに元に戻り正常に動き続けた。

 10月10日は「体育の日」であるとともに、「目の日」でもある。

そこで、昭和50年のその日にちなんで前日に、NHKが私の自動代筆を紹介することになった。

視覚障害者が点字で墨字を書くということを、目の日にちなんで企画してくれたのである。

番組は、「スタジオ102」というニュースを中心とした朝のワイド番組で、当時とても人気があり多くの人が視聴していた。

放送は10月9日の生放送で、点字データタイプライターは本番の前日にスタジオに運び込んだ。

当日は非常に緊張したが、そばに岡崎氏がいたのが何とも心強かった。

 その日の「スタジオ102」は、アメリカご訪問中の昭和天皇ご夫妻をディズニーランドから中継するのがメインの企画であった。

そして私の出番は、その中継のすぐ後であった。

中継が終わり、私の番になった。

私は手に汗をかきながら、点字データタイプライター3号機で点字を書く実演をした。

番組の流れは、次にその点字による紙テープから、墨字を印刷するところまでを写すものであった。

墨字を印刷するところはNHKでは実演できないので、あらかじめ国会図書館で撮影したものを用いた。

これが点字で墨字を書くところがテレビで紹介された最初である。

 NHKの放送が終わってから、3号機は家へは持って帰らず、学校の放送室のスタジオに置いた。

これで生徒に点字を書かせ、そのテープを国会図書館などへ持って行き、それを墨字に変換することを繰り返した。

小学部から高等部までの生徒が、文章と自分の名前を書き、それを墨字に変換したものが現在も残っている。

当時国語科の小林一弘先生(後・都立文京盲校長)が、生徒をよく私のところへ連れて来て、自動代筆を体験するように勧めて下さった。

NHKのテレビ放送の後、非公式ではあったが、3号機を学校に置いたことで、生徒にそれを触れさせることができ、また点字の機械に関心のある方に見てもらうことができた。

これがその後の展開に、大いに役立ったと思う。

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