六点漢字の自叙伝(16)


 《六点漢字の自叙伝》(第16回)1998年2月、通巻第182号

     − 自動代筆の学会発表と二つの点字プリンターとのつながり −

 昭和49年12月は、今の点字による日本語ワープロにあたる自動代筆に成功して本当にうれしかった。

これで前年の1月に行なった自動点訳実験とで自動点訳とワープロの双方向の実験ができたことになる。

しかし、この年から数えて、パソコンによる点字ワープロ誕生までには7年あった。

既にミニコンはあったが、その7年の間には、ワークステーションが生まれ、オフコンが生まれ、ピアノほども大きい東芝の日本語ワープロが生まれ、やがてマイクロコンピュータという言葉が聞かれるようになり、それにキーボードがついてパソコンへと続いた。

しかし、パソコンが生まれたものの、それで漢字を扱えるようになるまでには、また時間がかかった。

 年が明けて昭和50年正月からの私は、家にある点字データタイプライターで紙テープデータを作ったり、また都立中央図書館に通い、六点漢字改良のため漢字の資料などを調べていた。

 ここで点字データタイプライターの紙テープの扱い方について述べておこう。

もう紙テープなどというデータの媒体は使われていないのだから歴史的に意味があるかも知れない。

 点字データタイプライター1号機では、点字キーを押すと紙テープが2.5ミリぐらいずつ進む。

そして、テープの方向に対し直角に8個の穴があく。

穴の直径は点字の大きさとほぼ同じである。

点字は3点ずつ2列だが、紙テープは穴が1列で8個である。

そのうち1〜6番目が点字に対応している。

7、8番目の組み合わせがスペース、改行に使われていた。

 点字盤や点字タイプライターで文章を書いていても、よくミスを起こす。

また何文字か、あるいは、長い文章を削除したり挿入が必要になる。

今の点訳ソフトなら何でもない作業である。

しかし点字盤や点字タイプでは大変なことになる。

ところが、テープだから切ったりつないだりができるので、それだけは多少便利であった。

 紙テープの場合も、点字盤や点字タイプで直すのに少し似ている。

まず、テープの直角方向に点筆を動かす。

すると穴の1個ずつが点筆の先でわずかに感じる。

もし穴が足りなければ、歯車でカチカチと何マス分かテープを戻して足りないところに相当するキーを押す。

穴が余分だと厄介になる。

その部分を切って正しいデータのテープを、ノリづけで挿入することになる。

テープをつなぐにはノリのついた専用の修正用テープと簡単な道具があった。

岡崎さんのデータタイプライターがもっときちんとできていれば、テープの複写機能で簡単に編集できるのであったが。

 私は埼玉県立盲学校勤務時代に、日点などのラジオドラマコンクールに参加したので、オープン録音テープの編集をよく行なった。

録音テープでは、プツンという雑音を避けるため、接合部を斜めに切ってつなぐようにした。

私はラジオドラマ制作時代のように紙テープデータの修正を、文章を考えながら楽しく行なっていた。

 このようにしながら紙テープで文章を作り、辻畑さんか根本さんの都合のよいときに、国会図書館や東京JPに通った。

 「点字世界からのメッセージ」は、私が失明以来約20年ぶりに書いた、やや長い文章であった。

これには、自動点訳、自動代筆への思いを書いた。

また、アメリカのフォード大統領来日の新聞記事を書いたのは、新しい印刷法を試したかったからである。

 東京JPで、フォード大統領の記事を出力したところ、A4サイズのフイルムに4ページになった。

私はこのフイルムを旭化成に持って行った。

それは、このフイルムを基にして、新印刷方式である樹脂による凸版を作ってもらうためであった。

凸版になれば、それにインクをつけて印刷ができるのである。

 当時、朝日新聞社(ネルソンシステム)、日経新聞社(アネックスシステム)、IBM が共同で大基模な新聞システムを開発中であった。

これは、この3社が共同で行なわなければできないほどの非常に開発費のかかるプロジェクトであった。

それは、新聞の朝刊などの1刷分を全部コンピュータで自動編集し、編集結果を新聞1ページのフイルムに高品質の印刷パターンで出力するものであった。

この1ページの大きさのフイルムに出力するのも、それまでにはない大変な開発であったようである。

 そして、新システムでも、輪転機で印刷するのは従来と同じであるが、輪転機にかける凸版のドラムが樹脂によるもので非常に軽くなっていた。

以前から使われていた鉛の凸版によるドラムは20キログラムもあり、また鉛中毒のこともあり労働衛生上問題であった。

私は、電算写真植字のフイルムで、その軽い樹脂の凸版を作る真似事をしたかったのである。

確かに軽い軽い凸版ができた。

だが、それにインクをつけて印刷することはなかった。

 最先端の印刷法であるネルソンシステムは、昭和55年における朝日新聞社の新本社ビル完成とともに、全面的に使われるようになった。

そして、それから18年を経た今日では、新聞はインターネットやファクシミリでも見られるようになった。

視覚障害者は、絶え間なく進歩する技術変革の時代を、常に追いかけて行かなければならないのである。

 昭和50年4月26、27日の日本ME学会で私は自動代筆の発表を行なった。

この発表が起縁となって二つのことが後にあった。

 まず発表の前にME学会の大会プログラムを見て、東京大学生産技術研究所の尾上(おのえ)守夫先生が訪ねて来られた。

プログラムの、「点字から普通の文字への変換」という題を見てであった。

私は驚いた、新聞発表後も、私の所属する東京教育大学教授の先生が誰も私に声をかけてくれた方がなかったのにである。

 もう一人は、東京都立工業技術センターの平塚尚一さんが、新聞記事を見てすぐに附属盲学校へ私を訪ねて来て下さった。

あいにく、その時私が留守だったので会えなかったが、その年の秋に再び来校して会うことができた。

 この尾上先生と平塚さんが私のところへ来られたことが、後に2種類の点字プリンターが開発されることにつながるのである。

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