六点漢字の自叙伝(15)


  《六点漢字の自叙伝》(第15回)1998年1月、通巻第181号

          − 自動代筆実験成功と田所太郎先生 −

 今日の漢字プリンターに相当する、国会図書館の電算写真植字システムが使えるようになり、自動代筆と呼んでいた点字ワープロ実験の見通しが一応はついた。

しかし、いつ、どんな事情で使えなくなるかわからない。

それに、各種の電算写真植字システムで実験を行い、いろいろな経験を重ねたかった。

そこへ、東京大学工学部電子工学科大学院生の根本幾(いく)、田中剛(たけし)氏と知り合う機会があった。

 点字ワープロ実験の話をすると、それに協力してもらえることになった。

そこで東大の中で漢字プリンターを探したが、当時、東大には、工学部だけでなく、全学内に漢字プリンターがなかった。

今なら、どんなパソコンや専用ワープロにもついている、あのプリンターがである。

勿論、東大は、日本における初期コンピュータ開発の最先端であったが。

 そこで、新たに、2台目の漢字プリンターの使える所を探すことになった。

 まず、銀座5丁目の裏通りにある日本印刷学会の事務所に行き、電算写真植字システムを自動代筆実験のために貸してくれる所を尋ねた。

日本印刷学会では、図書新聞社社長の田所太郎先生を紹介してくれた。

 田所先生は、昭和12年に東京帝国大学を卒業するまで、「東京帝国大学新聞」を花森安治、田宮虎彦らと発行していた。

卒業後も出版界に関係し、戦後では、日本読書新聞の編集長を務め、出版における書評の文化を確立した人である。

昭和49年に独立して図書新聞社を起こし社長となった。

今思うと、私はその直後に訪問したことになる。

 田所先生にもすぐに心当たりはなかったが、私が訪ねてから、毎日新聞紙上に、私が点字ワープロ開発のため、漢字プリンターの使えるシステムを探しているという記事を書いてくださった。

 早速その反響があり、東京JPという印刷協業組合から協力してくれるという申し出があった。

田所先生にせよ、東京JPにせよ、実にありがたいことである。

 東京JPは、19社の中規模印刷会社が共同で出資し、電算写真植字印刷を行なうための協同組合であった。

当時は、印刷会社が19社も集まらなければ、電算写真植字システムの1台を持ち得なかった。

コンピュータは、それほど高価であり、大がかりな装置であった。

 幸い、東京JPは、富士通の電算写真植字システムであり、汎用コンピュータも同社のFACOM(ファコム)230/25であった。

これは東大工学部のものと同じ機種であり、東大でプログラムを作るのに都合がよかった。

 プログラムができるまで、私は相変わらず、岡崎氏の点字データタイプライターを、サビさせないように、そして故障させないように、最少の範囲で動かしていた。

点字から書く最初の墨字文をどんな文にするかを考え、その墨字プリントを夢見ながらである。

 そんなある日、待ちに待った辻畑氏から、プログラム実験の連絡があり、私は、昭和49年12月7日に、辻畑氏と午前9時過ぎに国会図書館5階の電子計算機室に入った。

 今のパソコンなら、ハードディスク、フロッピーディスクやCD‐ROMなどから、プログラムとデータを読み込むのであるが、当時の汎用コンピュータは、葉書を細長くしたようなパンチカードを何千枚も読み込むのである。

そのカードは空気の陰圧で吸い込まれるのだから、その音たるや、電気掃除機で、床に散らばる紙を強力に吸引するようなもので、パタパタパタ‥‥というすさまじい音が、何分も鳴り響くのである。

そのあとは、コンパイルという機械の処理時間で、実験の1回ごとに、約15分ぐらい待たされた。

コンパイルが済むと、私が、六点漢字第4案を用い、家において点字データタイプライターで紙テープに記録してきたものを読み込ませて墨字にするのである。

 何回か実験しながらプログラムを修正し、カードの何枚かを新たに書き直して、またパンチカードを、吸引式カードリーダーで読み込ませて、コンパイル時間を待つの繰り返しであった。

 そのようなことを何回か繰り返した3時過ぎであったと思う。

辻畑さんが、「できました‥‥できました‥‥」と言いながら私の所へきた。

そして、私の手にシットリと湿った点字用紙ほどのものを渡してくれた。

このしっとりと濡れた紙に、六点漢字による墨字が書かれていたのである。

濡れていたのは、文字を現像させた薬液を水洗いしたからである。

 「この文章は電子計算機を用い点字から直接書いた最初のものです。」

 これが第1行目である。

その下に、実験を行なった年と月、私の名前、両方のシステムに関係している3人のプログラマーの名前、国会図書館と東京JPの協力機関、御茶ノ水女子大学点訳クラブなど多数のボランティアの名前を書いておいた。

それは、それらの人々への感謝の気持ちと、初めて点字から書いた墨字の印刷物に名前を留めておきたかったからである。

 同じ12月のクリスマスを過ぎた26日に、東大の根本氏、田中氏が、東大の汎用コンピュータでプログラムを作り、東京JPのシステムで実験を行なった。

こちらは、A5サイズの透明なフイルムに文字が現像されていた。

この実験結果については、翌年の4月26、7日の日本ME学会(医用電子技術)で報告した。

視覚障害者の学会報告とあって、朝日新聞で写真入りの大きな記事になった。

 幸運なことに、昭和49年12月に、同時に2種類の実験に成功したのは、2か所の電算写真植字システムが使えたからである。

私は、ご報告が遅れたが、学会発表後の6月中に、田所太郎先生に、直接お礼に伺おうと連絡をとった。

ところがである。

驚いたことに、また口惜しいことに、先生は、その直前の6月6日に自殺なさっていた。

先生は、日本読書新聞社から独立し図書新聞を起こしていたが、資金の面で失敗し、自殺に至ってしまった。

先生はジャーナリストであり、4月末に写真入りで紹介された朝日新聞紙上の自動代筆成功の記事を、きっとご覧になっておられたと思う。

しかし、私はお目にかかってご報告をしたかった。

思い出すごとに、今でも申し訳なく、また何とも残念である。

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