《六点漢字の自叙伝》(第13回)1997年11月、通巻第179号
− アイディアから7年目の自動点訳実験 ー (動いてくれた点字プリンター)
辻畑さんに、自動点訳のために集めた資料をすべて渡して、私はプログラムのできるのをひたすら待っていた。
それは、期待に胸はずむ日々であったが、この上なく待ち遠しい日々でもあった。
その間、私は例の虎の子の点字プリンターを、少しずつ動かしながら、サビさせないように、そして故障させないように気をつけていた。
また一方、六点漢字第3案を作りつつもあった。
辻畑さんに、点訳用資料を渡してから3カ月後の、昭和48年1月末頃だった。
辻畑さんから初めて連絡があった。
それは、点訳プログラムの下書きに当たる、コーディングができたので、点訳実験は間近いというものだった。
後は、パンチカードに起こして、プログラムミスを修正するだけだという。
そこで、1月30日に、池袋のタカセの前の地下鉄出口で、午後に会うことになった。
いよいよ、辻畑さんがその時に持って来る、出力された紙テープデータで、家の点字プリンターが動くのだ。
この連絡が来るのを、どれほど待ちわびたか。
勿論、私は当日に少し早目に約束の場所へ行った。
ところが辻畑さんは約束時間に来なかった。
私は少し遅れて来るのだと思ったが、かなり時間がたっても来ない。
私は心配になってきた。
それでも、辻畑さんは必ず来ると信じていた。
私は、何時間か待って7時になった。
辻畑さんが息せききってやって来た。
遅れた理由などはどうでもよい。
とにかく会えたのだ。
早速2人で、練馬の私の家へ急いだ。
家へ着くとすぐに、機械に紙テープをセットし、スタートさせた。
私は、機械が止まるのを待ち切れずに、印刷中の点字用紙に指を伸ばした。
そして少しでも読める範囲の点字を読んだ。
「たすうけつ の げんり には ‥‥」(多数決の原理には‥‥)とカナの点字が印刷されている。
マスあけと、助詞の「は」、「へ」、それに長音はカナ点字の規則とは違うが、一応は、カナの点字として読めるものであった。
これが、原文の漢字を、カナ点字に変換する方式による、最初の自動点訳であった。
次が、六点漢字による、横井さんの新聞記事の印刷である。
これも、印刷中で、まだ動いている点字用紙の上で、六点漢字を読むことができた。
「名古屋市千種区観音寺町に住む横井庄一さんは、初めて迎える終戦記念日の‥‥」と続いた。
昭和41年春の朝日新聞見学でアイディアがひらめいてから丁度7年、今、目の前で点字が印刷されているのだ。
印刷中で、まだ動いている紙に指を追いながら胸に熱いものが込み上げてきた。
「これが、自動点訳なのだ‥‥!」アイディアから7年。
それは、何の装置も、また何の方法もないところからの出発だった。
辻畑さんは、無口で、もの静かな人であったが、私が点字を読むのを確認してうれしそうだった。
辻畑さんの作ったプログラムは、葉書を細長くしたような、パンチカードという、当時のコンピュータ用の紙カードに記録されていたが、約500枚ほどあった。
今考えると、その頃の、あの未発達のコンピュータで、よくここまでできたと感心する。
一通りの点字印刷が終わってから、この点訳結果の点字のそれぞれに、どんな文字が、点訳されているかが、健常者にもわかるようにする必要を感じた。
そこで、この点字用紙に、墨字も合わせて書いて、それを通常のコピー機で写す方法を考えた。
それは、意外にも簡単に実現した。
点字用紙に、カーボン紙を重ねて印刷すると、点字の凸点が黒い点字になる。
その黒い点字の各々に、わかるような墨字をつけて、複写すればよいのだ。
その黒い点字と墨字の複写が、雑誌「教育と情報」(文部省発行、1976年11月号)と「第7会IBMウェルフェアセミナー報告集」(1972年)に掲載されている。
この実験は、そのアイディアを昭和41年に抱き、昭和47年に、装置などの機材や資料を準備し、翌昭和48年1月に点字として打ち出し完成した。
現在で見ると、アイディアから31年、実験の準備と実験からだと、25年のことである。
コンピュータの世界は進歩が速い。
すべてが夢のように過ぎて、今のコンピュータによる情報化時代になった。
前にも述べたが、実験に欠かせない点字プリンターを作った岡崎止郎氏は昭和60年に亡くなっている。
そして、そのプリンターは、今は、私のこの部屋にはなく、附属盲学校資料室にある。
岡崎式点字プリンターは、点字キーと紙テープ装置がついていたので、点字データタイプライターでもあった。
だから昭和49年12月の自動代筆実験(今の点字日本語ワープロ)にも使った。
点字の世界も情報化時代である。
現在、点字プリンターは、全国に千数百台ぐらいあると想像される。
そのうち、JTRのESAシリーズ、東洋ハイブリッドのTPシリーズが多くを占めているであろう。
私は、それらが、どのようないきさつで、岡崎式プリンターに影響を受けたかを、具体的に知っている。
そして、それらの機械が、岡崎式より勿論優れている。
だが、それらは、岡崎式の上に乗るものであり、岡崎氏の存在価値を否定するものではない。
この先において、それらの事情についても触れたいと思っている。
私は、去る9月20日に、トロン・イネーブルウェア研究会において、「三次元立体映像を手でつかむ視覚障害者のためのバーチャルリアリティ」という発表を行なった。
限りなく進歩する技術を、視覚障害者の立場から、興味深く追い加けたい。
そして新たな提案をしたい。
三次元立体映像をつかむのは、25年前のワープロ実験と同じ意味がある。
奇しくも、今この原稿を書いている数時間前の、昨9月22日に、ニュースによると、ここに名前を挙げさせていただいた横井庄一さんが、入院中の名古屋の病院で亡くなられたそうである。
日本に帰って、26度目の秋である。
私の六点漢字とも不思議なご縁があった。
また時が動いた。
ご冥福を祈ります。