六点漢字の自叙伝(12)


 《六点漢字の自叙伝》(第12回)1997年10月、通巻第178号

         − 自動点訳はカナ点字方式と六点漢字方式 −

 CO−59コードは、縦と横に50ずつのマス目があり、全部で2500字分の表になっていた。

そしてそのマス目に、カナ、数字、漢字などの、新聞で使われる文字が、合計2304字書かれてあった。

 私はこのコード表に従い、六点漢字体系の非漢字と漢字の第1案作りに7月から取りかかった。

幸い、学校が夏休みだったので、朝早くから夜遅くまでこれに没頭することができた。

そして、昭和47年8月中に一応の案を完成した。

しかし、その後は、「作った漢字を覚えては使い、またそれを作り直しては覚えて使う」の繰り返しであった。

そして、そのような繰り返しを、昭和56年までの9年間に、10回行なった。

そのような作業は、やりがいのあることで、楽しくはあったが、つらくはなかった。

こうして作った六点漢字が、その昭和56年12月に開発された、パソコンの点字による初めての日本語ワープロに使われた。

パソコンの機種は富士通FM−8であった。

パソコンによる日本語ワープロについては、後で詳しく述べることになる。

 自動点訳を行なうために必要な、第3番目の条件である印刷用の紙テープについては、昭和47年8月15日の終戦記念日の数日前に、再び共同通信を訪ね、技術部の高橋五郎氏から、1.5メートルほどの長さの紙テープと、それで打ち出したモニター印刷とをいただいた。

この5本の紙テープの中の1本で、翌年の1月に、六点漢字第2案を使った自動点訳実験を行なうことになった。

 そのテープに記録されていた新聞記事データは、横井庄一さんについてのものであった。

横井さんは、元日本兵であったが、敗戦を知らずに、27年間もグァム島のジャングルに隠れていたが、発見されて保護された。

そしてその年の3月に名古屋の故郷に帰った、当時の有名な人であった。

その横井さんが、30年ぶりに、故郷の名古屋に帰り、初めて日本で迎える終戦記年日の心境を伝えるものであった。

この紙テープデータが、共同通信加入の全国のマスコミに、専用通信回線で配信されるのである。

そして、新聞社なら、そのデータで直接に印刷用の活字が作られ、紙面における文章の通りに並べられてしまうのである。

これは、当時の最進技術であった。

 自動点訳用の紙テープについては、もう一種類のものを用意した。

それは、原文に漢字が入っていて、それをカナだけの点字に自動点訳するためのものであった。

 私は、高橋達郎氏の紹介で国立国語研究所へ行って田中章夫先生に会っていた。

先生は、漢字の入った日本語文を、カナだけ、あるいはローマ字だけの文章に変換する研究を行なっていた。

国立国語研究所報告の「電子計算機による国語研究 II.」に、その論文がある。

 これは、現在の「80点」、や「EXTRA」のように点訳を目的にして漢字をカナ文にするために作ったものではない。

そして、恐らく、これがコンピュータで、漢字をカナに変換する最初のシステムであった。

そのシステムが、カナ点字への自動点訳に応用できるのだ。

それが私の着想である。

私は幸運なことに、その開発者に巡り会えたのである。

 私が、漢字をカナにするシステムを求めて以前に先生をお訪ねしたとき、先生は、思いがけない応用があると驚かれた。

そして私の自動点訳実験に協力して下さることになった。

 私は、10月に再び先生を訪ねた。

そして、漢字の入った文章にカナづけした紙テープデータをいただいた。

 その原文は、東京大学法学部尾高朝雄(おだか ともお)教授の文章で、当時の中学校国語教科書にも度々採用されていた、「多数決の原理」という文章であった。

 当時の国立国語研究所のコンピュータは、日立のHITAC(ハイタック)−3100であり、内部メモリーは20キロワードと聞いていた。

現在のパソコンの数10メガバイトに比べれば、おおよそ千分の1ほどのものであった。

 だから漢字のカナづけ処理を行なう場合、その漢字の上と下の文字が、カナか漢字かという、それだけの少ない情報で、漢字のカナづけを行なっていた。

それでも「多数決の原理」については、約86パーセントの精度でカナづけされていた。

このカナづけされた紙テープのデータから漢字を取り除いてカナだけの文章データにする。

そして、そのデータを点訳すればカナ文の点訳ができるというのが、私の考えであった。

勿論、これだけでは点訳として完全ではない。

 自動点訳実現の条件で残るのは、そのために使うコンピュータの確保と、そのシステムを作るプログラマーの協力者を得ることだけになった。

 私は幸い、視読協運動の中で曽根順子(旧姓・江上)さんを知っていた。

そして曽根さんから東京大学点友会(点訳クラブ)に辻畑好秀(つじはた よしひで)さんというプログラミングのできる学生がいると聞いていた。

何しろパソコンが日本で普及しはじめる約10年ほども以前のことである。

プログラミングのできる人は非常に少なかった。

辻畑さんは点友会の会員だから点字を知っている。

そしてプログラミングもできる。

こんなに条件のかなった人はいない。

そこで曽根さんに辻畑さんを紹介してもらうために、10月の末頃に、渋谷に行き、3人で会った。

 辻畑さんは、点字を知っていたし、コンピュータの言語情報処理に関心があったので、プログラミングを快く引き受けてくれた。

 そして最後の難問は、自動点訳実験に使うコンピュータをいかに確保するかであった。

 前にも述べたが、コンピュータセンターのものを借りれば、1秒間の料金が50円から800円である。

これでは1回実験を行なうのに何十万円かかるかわからない。

これには全く困ってしまった。

ところが、辻畑さんの大学の先輩で東芝総合研究所に勤めていて、その関係で研究所のTOSBAC(トスバック)−40というコンピューターが使えるようになった。

私は点訳のために集めた資料をすべて辻畑さんに渡して自動点訳の結果を待つだけとなった。

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