六点漢字の自叙伝(11)


   《六点漢字の自叙伝》(第11回)1997年9月、通巻第177号

           − 幻と消えた点字プリンター会社 −

 私は考え込んだ。

日本点字図書館で見た電動亜鉛製版機は2、3マス書いて止まってしまった。

私の家に届いた電動点字タイプライターも、点字を1ページ書かないうちに煙が出て止まってしまった。

しかし紙テープ式点字データタイプライターは、やはり是非とも確保しておかなければならない。

ここで賭けになるが、私は電動点字タイプライター2台と、紙テープのリーダーとパンチャーを注文した。

これを組み合わせると紙テープ式点字データタイプライターになるのである。

電動点字タイプライターを2台注文したのは1台が故障した場合の予備にである。

 7月の暑い日だった。

注文した紙テープ式点字データタイプライタ1号機が、岡崎氏と2名の社員により、岡山県から直接に届けられた。

 この機械で、点字キーを打つと、幅1インチ(2.4センチ)の紙テープの直角の方向に、点字の信号の穴があくのである。

紙の端から点字の1〜6の点までが1列にあくのである。

8単位紙テープというものであったが、7、8番目の穴はマスあけと改行に使われていた。

これは、点字の「岡崎コード」と呼んでよいものである。

 この点字データタイプライターが届けられて1カ月あまりで岡崎事務機研究所は、私が予想した通り見事に倒産した。

電話をしても、社長の岡崎氏とは全く連絡がつかなくなった。

 後に元岡崎事務機研究所の社員だった金子氏から聞いたのであるが、電動点字タイプライター50台分の部品のうち、47台分を、社長行方不明で給料味払いの足しにするため、スクラップとして10万円で売ってしまったそうである。

残る3台のうちの2台が私の所へ届けられていたのである。

あとの1台は、岡崎氏が、倒産で身を隠している間、秘かに持っていた。

そして、その最後の1台も3年後に岡崎氏と連絡がとれるようになってから、私が引き取った。

岡崎事務機研究所は、会社設立とともに、50台分の電動点字タイプライターの部品を準備した。

しかし、結局私だけが3台を買っただけで、会社は幻のごとくに消えたのである。

 私は、この紙テープ式点字データタイプライターを虎の子のように大事にした。

とにかく自動点訳実験までは動いてくれなければならない。

日本中、あるいは世界中においても私の実験目的に使える点字プリンターはこれだけなのである。

 私はこの機械を使い過ぎて故障させてはならないと思った。

また逆に、使わないためにサビさせてはならないとも思った。

そこで1日おきぐらいに、1、2分程というほんのわずかずつ動かした。

その「タン・タン・タン‥‥」と軽く動く音を聞いて、「今日も動いてくれた!」とホットして機械をなでたものである。

もしも故障したら直せる人がいないのである。

 とにかくこのようにして、翌年の昭和48年1月30日の自動点訳実験の日まで動いてくれた。

 この点字プリンターが、現在、視覚障害者、盲学校、点字図書館、点訳ボランティアなどの間で広く使われているESA点字プリンターや東洋ハイブリッドの点字プリンターシリーズに大きな影響を与えることになるのである。

その辺の詳しい事情は後に譲ることにする。

 この点字データタイプライター1号機は、他の機械とともに、私が勤めていた筑波大学附属盲学校に保存してある。

 岡崎氏は岡山県の出身である。

戦争中に、多くが特攻隊員にならされ犠牲者になって行った予科練に入隊した人である。

戦後無事に帰り、日本タイプライターに入社した。

そして機械技術の専門の学校教育を受けたわけではないが、その発明好きとその才能で日本タイプライターの開発部門を担当した。

ある時岡崎氏に取得特許の数を聞いたことがあるが、ここに書けないほどの「本当かな?」と思わせる数であった。

岡崎氏は酒と発明が何より好きであった。

そして話は大きかった。

私の家で、酒を飲みながら機械を分解して修理することなどもあった。

その好きな酒のため昭和60年12月23日に肝硬変のため亡くなった。

私は故障しやすい機械で幾度も悩まされた。

また私の新しい着想で、機械を注文し、材料を買うために金を払ったが、約束通りにできなかったこともある。

岡崎氏は、それでも憎めない発明家らしい面白く変わった人柄であった。

これからもここに登場するが、点字の世界に大きな影響を与えながら、これまで知られなかった方である。

岡崎氏が残した功績は大きいと思う。

 自動点訳に必要な五つの条件のうち、二番目は、自動点訳の原本となる新聞、雑誌、書籍などの紙テープデータである。

 私は、共同通信という会社が、国の内外からニュースを集め、加入している新聞社、放送局などにニュースを専用回線で配信すると聞いていた。

そこで新橋の近くにあった共同通信を訪ねた。

昭和47年の初夏であった。

共同通信の技術部の人が私の話を聞いて共力してくれることになった。

そしてまずCO−59という漢字コード表を提供してくれた。

 「CO−59」とは「common code 1959」から名付けられたものであり、恐らく日本で最も古い漢字コード表だと思う。

 漢字コード表という意味は、「漢字を含む」という意味であり、漢字意外の平仮名、片仮名、アルファベット、各種の記号類など、いわゆる非漢字をも含んでいる。

JISコーどと言われるJISの「情報交換用漢字符号系」(後に改名)というものは、CO−59に19年遅れて1978年に制定されたが、その構成法において、このCO−59の影響をかなり受けているものである。

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