六点漢字の自叙伝( 9)


  《六点漢字の自叙伝》(第9回)1997年7月、通巻第175号

            −次の実験を生んだ対面朗読実験 −

 対面朗読という言葉は、昭和48年1月の東京都立中央図書館開館とともに行なわれた視覚障害者サービスから使用されたものである。

したがってこの言葉は昭和45年にはなかったわけであるが、便宜上ここではこの言葉を使うことにする。

 昭和44年に橋本宗明さん(現カトリック点字図書館長)が、「東京障害者泳ぐ会」を作った。

私は水泳が好きなのでさっそくその会に入った。

そしてある日、プールサイドで橋本さんから、「都立日比谷図書館が視覚障害者サービスを始めるので、その運営について意見を言う機会がある」と聞いた。

私は昭和43年に東京都教育局が開いた対話集会で、「都立日比谷図書館を視覚障害者が利用できるようにしてある」と発言したのを聞いた。

そこで朗読ボランティアの方と早速、日比谷図書館へ行ったところ朗読室もなく、「事務室の欠勤者の机で本を音読するように‥‥」と言われ、その無責任さにあきれた思いがある。

そこで今度はどういうことになるかと興味があり、その会に参加することにした。

 現在の中央図書館が開館するまでは、日比谷図書館が都立の中では最も大規模な図書館であった。

その日比谷図書館が、昭和45年4月から視覚障害者が利用できるようにするというのであった。

その方法は、視覚障害者が録音を希望する図書を申し込み、図書館がそれを録音して希望者に届けるというものであった。

つまり、現在の対面朗読方式ではなく、個人希望による録音テープ方式であった。

このサービスは、その頃から増加しはじめた視覚障害を持つ大学生や一般の視覚障害者からの強い要求があって実現したものである。

しかし日比谷図書館はすでに存在する日本点字図書館など在来の点字図書館に対しかなり遠慮していた。

つまり、それらの点字図書館の業務を公立の図書館が割り込んでサービスを始めることになるからである。

 確かに点字図書館は、視覚障害者にとって必要なものである。

それは点訳奉仕と朗読奉仕の無報酬のボランティアによって支えられている。

ところが、そのことが美化されすぎて、当時としてはそこへ公共図書館などが公費を費して割り込むのは道義的に許されないような雰囲気があった。

しかし、それは本末転倒な話ではないだろうか。

元来、社会教育機関である公共図書館が住民である視覚障害者へのサービスを行なって来なかったことのほうが問題なのであり、それが裏返しの現象になったのである。

 その日比谷図書館におけるサービスの改良を要求した東視協(東京視力障害者の生活と権利を守る会)、日比谷図書館利用者の会、日比谷図書館朗読者の会、SL(Student Library)、点字あゆみの会などが6月に視読協(視覚障害者読書権保障協議会)を結成した。

そこで私も迷う事なくこの会に参加した。

 私はこの日比谷図書館のサービスを利用して自動点訳と自動代筆(現在の視覚障害者用ワープロ)の開発に必要な資料をテープに録音してもらおうと思っていた。

しかし、新書程度の大きさの本でも完成するまでに約3カ月〜半年もかかるという。

それでは読書として役に立たない。

4月からサービスは始まったものの実際は数カ月を経ても、私も含め希望した人のテープ図書はほとんど完成していなかった。

そこで、私は事務の須田さんを通して杉捷夫(としお)館長に、私が図書館へ行くから直接目の前で読んでいただきたいと申し出た。

杉館長は、視覚障害者のサービス改良の希望をよく理解して下さる方だったので、この申し出は快く認めてもらえた。

もちろん私は後に、視読協にこの対面朗読試行の了承を得た。

 このようにして私は昭和45年10月より、毎週火曜日の9時30分の日比谷図書館の開館から、12時までの2時間半の間に対面朗読を受けた。

これは中央図書館への資料移転のため日比谷図書館が休館する直前の昭和47年9月までちょうど2年間続いた。

後で考えるとこの期間が、中央図書館における正式な対面朗読開始の実験になったのだと思う。

以前は朗読室もなく事務室の欠勤者の空席が当てられたが、今回は録音のための独立した小部屋が用意されていた。

防音設備がないので日比谷公園でいろいろな集会があると、その度にスピーカーの演説の声やシュプレヒコールが聞こえて来た。

あれから27年を経た今日では、それも懐かしい思い出である。

 こんな日比谷図書館通いの間に、かけがえのない1冊の本に巡り会った。

それは『日本語の機械処理』(高橋達郎著)であった。

しかし、この本は日比谷図書館にあったわけではない。

図書館の出版年鑑で参考書を探しているうちに、その書名を見つけたのである。

私は帰り道に、書店で早速その本を買い求めた。

そしてボランティアの方に読んでもらった。

その本には、近い将来にはこれまでの鉛活字が印刷からなくなり、コンピュータによる印刷時代が来ると書いてあった。

私は今こそ昭和41年に朝日新聞社の新聞印刷工程で直感した自動点訳と自動代筆の実験を開始する時だと思った。

 そこで著者の高橋達郎氏に会うため、永田町の首相官邸にほど近い日本科学技術情報センターを訪ねた。

高橋氏は、私のアイディアをよく理解して下さり、私の実験のために国立国語研究所の石綿敏雄先生をすぐに紹介して下さった。

この『日本語の機械処理』とその著者に会い、そして国立国語研究所を訪ねたことが、私をコンピュータによる自動点訳、自動代筆実験に走らせたのである。

そしてこれは対面朗読の実験が、次の実験を生んだともいえるわけである。

 ところで、視読協発足(昭和45年6月)以来事務局長を務め、サービス改善に尽力された市橋正晴さんが、この4月23日に突然亡くなられた。

視読協は市橋さんが支えて来たと言っても過言ではなく、誠に惜しい方を亡くしたものである。

慎しんでご冥福を祈りたい。

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