六点漢字の自叙伝( 8)


  《六点漢字の自叙伝》(第8回)1997年6月、通巻第174号

     −私の点字情報処理の原点と公共図書館対面朗読の芽生え−

 私は埼玉県立盲学校での楽しい思い出に後ろ髪を引かれつつ、昭和41年の4月に母校である筑波大学附属盲学校(附属盲)へ転勤した。

そして、まず尾関先輩が大学院生のころ、電々公社と東京教育大学の間で行なった、おそらく世界で最初の研究だったコンピュータによる点字の実験装置を見ようとした。

しかし当時は、附属盲の入っていた雑司ヶ谷分校が校舎の建て直しの真っ最中であり、多くの荷物が間に合わせに倉庫となった体育館の奥深くにしまわれていた。

求める点字の実験装置も同じであった。

 転勤して間もない5月頃、担任している高等部2年が社会見学に出かけた。

このクラスには、後に歌手になった長谷川きよし君、今の国立身体障害者リハビリテーションセンターの乙川利夫君などがいた。

社会見学の行き先には、民間放送局に加え当時、有楽町駅の近くにあった朝日新聞社が含まれていた。

新聞社の見学コースを巡るうち、新聞用の鉛の活字を自動的に鋳造するところへ来た。

私はそれまで印刷工場には必ず活字棚があって、植字工がその順序に並ぶ活字から原稿の通りに活字を選ぶものだとばかり思っていた。

そして、新聞社では活字で新聞1ページ分を作り、それをさらに加工して輪転機にかける凸版にするものと信じていた。

ところが、そこでは新聞の原稿をキーパンチャーが紙テープに入力し、信号として記録していた。

そして、その紙テープに記録された信号の通りに活字が鋳造される機械があった。

それは自動鋳造植字機といい、またモノタイプとも呼ばれていた。

これにより活字は、2秒に3本ぐらいの速さで作られ、新聞の文章の通りに並ぶのであった。

後に知ったのであるが、このモノタイプは紙テープの信号で活字の母型を選び、そこに溶けた鉛を注入し、それを急速に冷して活字を作る機械であった。

私はこの機械の説明を聞き、非常に興味を覚えて立ち止まった。

これは大変な驚きで、生徒引率者の私が興奮してしまっていた。

そしてその場で、私に「ハッ」と閃いたものがあった。

それは「もし、点字または点字キーでその紙テープと同じものを作れば、点字から直接に墨字の新聞ができてしまうのではないか!」。

また「逆にそのテープから点字を印刷すれば、新聞の自動点訳ができてしまうではないか!」ということだった。

しかし、残念ながら点字には漢字がない、どうしたらよいだろう。

尾関先輩の研究は、漢字については触れてないはずである。

それなら点字の漢字を作らなければならない。

また、紙テープに記録する信号は、墨字用と点字用は違うはずである。

その違う信号のテープの間は、最近時々耳にすることのある電子計算機というもので、どうにかするのだと思った。

ところが、JISの漢字コードは12年後の昭和53年に初めて定められたのであり、昭和41年では文字のコードがどうなっているかなどは皆目検討がつかなかった。

朝日新聞の見学が終わってから、私はなるべく「情報」とか、「電子計算機」とか「漢字」とかいう項目のある新聞や雑誌を読むようにした。

そのために学校の空時間にボランティアやアルバイトの方にそれらの本を読んでもらうようにしていた。

しかし、私が個人で買う本の数には限界があり、是非とも朗読者と一緒に公共図書館へ行く必要に迫られた。

 昭和42年は、あの美濃部亮吉氏が東京都知事になった年である。

氏は東京教育大学の教授であったが、押されて初めて東京都の革新知事となった人で、いろいろな問題で都民との対話集会を行なった。

その一貫として、東京都教育局が昭和43年11月に行ったのは教育に関する対話集会であった。

私もその対話集会に参加した一人である。

そこでの東京都への要求項目の中には、「都立日比谷図書館における視覚障害者の利用を保障せよ!」があった。

これに対し教育局側は、「いつでも日比谷図書館へ来て下さい」と答弁した。

私は喜び勇んで早速その直後に、朗読ボランティアと共に日比谷図書館を訪ねた。

そして私が必要とする本を書庫から持って来てもらい、それを図書館の部屋で読めるようにすることを申し入れた。

ところが、対話集会で教育局があのように答弁したものの、現場には何の準備もなかった。

そこで図書館は、「10人ほどの事務室に、1人の欠勤者がいるから、その空席の机で本を読むように」とあわてて対処した。

私は目録の中からコンピュータと印刷に最も近いと思われる「印写工学」(井上栄一、東京工業大学)全3巻を選んだ。

そして欠勤者の空席の机で、ボランティアのSさんに読んでもらった。

だが周囲に迷惑にならぬよう、なるべく小さな声にしてもらった。

しかし、この本においては、まだコンピュータと印刷について触れてなかった。

事務室の人達にすれば、仕事中に声を出されて本を読まれたのでは迷惑である。

こちらも人に迷惑とわかっていながら、声を出してもらい本を読むのは心苦しい。

しかし、私も都民である、どうして都立図書館で本を読むのに遠慮しなければならないのだろうか。

また、本質的に読書とはその内容にかかわらず、他人の存在を意識しないようにして行なうプライベートな行為なのだとも思った。

 私はその折の日比谷図書館における朗読は、この1回だけにした。

そして朗読室もないのに無責任に答弁する対話集会なるものの空しさを感じた。

この当時は、まだ「対面朗読」という言葉はなかった。

しかし、この日の日比谷図書館での体験は無駄にはならなかった。

これが基となり、昭和45年10月からの日比谷図書館での対面朗読試行へとつながるのである。

そして、そこで私は「日本語の機械処理」(高橋達郎:たつお)に巡り合うのであった。

この本に出会わなければ、私の点字情報処理の実験はあるいはなかったかもしれない。

そして、この対面朗読で1冊の漢字辞典をボロボロにし、六点漢字をコツコツと作ったのであった。

私は全盲であり、墨字の本を自由に調べる方法が公共図書館の対面朗読以外なかった。

このため、公共図書館を視覚障害者にも開放することが、いかに大切かを、誰よりも骨身に染みてわかっているつもりでいる。

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