《六点漢字の自叙伝》(第7回)1997年5月、通巻第173号
−埼玉盲学校時代の思い出−
就職についての妨害はあったが、とにかく私は東京の池袋から1時間あまりの川越市にある埼玉県立盲学校(埼玉盲)に就職した。
この8年間の埼玉での生活は、良き先輩や知人との出会い、生涯忘れることのできない思い出に包まれている。
そして遠くはなったが、録音テープライブラリーのある銀座4丁目の国際キリスト教奉仕団へもたびたび通った。
それは朗読希望の原本を届けたり、テープを借りたり、図書館運営についての意見を伝えるためであった。
意見の一つは、テープ図書貸出しの郵送料のことであった。
当時は図書館の貸出しテープの郵送料は普通料金であった。
この問題は、同奉仕団の小川さんが日本点字図書館(日点)の本間先生と話し合い、本間先生のご努力で現在の形になったようである。
意見のもう一つは、点訳奉仕に頼り点字図書きりまだなかった日点への配慮のことであった。
点訳者には結核によるカリエスなどの療養者などで、この社会奉仕を生き甲斐にしている方が多いと聞いていた。
点訳は点字を覚え1点ずつ打つ大変な作業である。
それに比べマイクを前にして読むだけで本ができてしまう録音が、点訳奉仕者に衝撃を与えてしまうのではないかと心配したのだ。
もちろん、音訳と呼ばれるようになった今日の朗読も、大変さにおいて変わりはないのであるが。
日本において録音テープによる図書館の第1号が、国際キリスト教奉仕団テープライブラリーである。
そこが最初に行なった朗読者養成のための講師は、片岡みどりさんであった。
彼女は多くの声優や俳優を出した昭和16年6月募集の東京放送劇団第1期生であった。
現在でも、カルチャーセンターなどにおける朗読の指導者にアナウンサーなど放送関係者が多いがいわばその走りである。
昭和32年には、ボランティアを対象とする朗読講習会も行なっている。
前にも述べたが、日点は昭和33年に文芸春秋の9月号からテープを作り貸出しを行なっている。
次いで、録音構成を中心とする月刊テープ雑誌の「つのぶえ」を盲学校生徒向けの内容でスタートした。
これは現在、視覚障害者全般を対象とするものとなったが、今も続いている優れたテープ雑誌の一つである。
日点はこの「つのぶえ」の上で盲学校の録音技術を競う、全国盲学校放送劇コンクールを昭和36年に開始した。
埼玉盲も私の自作脚本や演出で、このラジオドラマコンクールに幾度も参加した。
そして何度か上位入賞をしている。
若い教師時代に、私はこれに生徒と共に熱い情熱を思いきり傾けた。
当時のことだから、まだ防音設備はなく木造校舎の教室の窓に毛布を下げ録音した。
ところで、盲学校は町外れにあり割合静かだったが、調子のよい録音中に近くの農家から耕作用の牛が「モーッ」と鳴きそのたびに録音機を止めた。
このため本格的録音は、静かになる夜を待って 始めた。
しかし、たびたびの録り直しでしばしば徹夜となることもあったが、生徒はこれを喜々として喜んだ。
もちろん、校長に知られたら大変なので内緒である。
しかし、翌日の授業は教師のこちらも、授業を受ける生徒も眠いばかりであった。
若かったからそんな無茶ができたのであろう。
一方、埼玉にいても点字とコンピュータの接続のことは心から離れなかった。
学校が運動会の代休か何かで休みの日に、当時東京の大手町にあった国際電信電話会社(KDD)まで、紙テープによる電信装置を見学にわざわざ行ったこともある。
通信室はカンピョウの干場のように、細い紙テープがあふれるばかりに下げられていた。
今はそんな紙テープや装置は全く使われていないが、私は点字の実験に用いたそれらを歴史資料として今も大切に保存している。
私が埼玉盲に勤務してよかったことの一つに、恩田卯平先生との出会いがある。
先生は、東京教育大学理療科の前身である官立東京盲学校の出身で、私の丁度30年先輩である。
私が附属盲への転勤後、六点漢字を作って漢字入力の実験を行なっていた昭和49年頃から75歳というご高齢にもかかわらず、六点漢字を学習してくださった。
そして第1水準の約3千字を、ほとんど覚えておられた。
また、パソコンによるワープロが開発される以前に、点字データタイプライタで松下幸之助の「道」という詩などを入力しておられる。
このデータは金沢工業大学水野舜(しゅん)先生のところへ送られ、墨字の印刷物となっている。
初期の漢字プリンターによる独特な印刷書体のプリントは、今は私の手元にある。
その後先生は、富士通FM-8によるパソコンの点字ワープロ1号機ができた時も、すぐに入手されて漢字を含む文章を書きはじめられた。
川柳のお好きな方で、NHKの川柳番組にもこのワープロでよく応募されていた。
それが入選したので、生放送のスタジオから先生の家へ電話がかかった。
私は偶然にそのラジオ放送を聞いていたが、あいにく先生はお留守であった。
そこまでワープロを使って下さる先生の頼もしさに思わずラジオの前で拍手を送った。
NHKはそのワープロでの投稿者が全盲であることを知らないままに電話を切った。
川越市には全盲川柳家の福田案山子(かかし)先生がおられるので、川柳が盛んな土地柄である。
恩田先生も、ワープロにより川柳集を編集し、健常者に配布しておられた。
また、パソコン通信も早くから始められPC‐VANのハンディコミュニケーションボードのボイスルームという、視覚障害者を中心とするBBS(電子掲示板)の、#300の番号の書き込みを行なっている。
この書き込みは昭和62年頃のはずで、当時先生は83歳であるから、健常者を含めて最高齢レベルのパソコン通信接続者でなかったろうか。
さらに先生は埼玉盲の同窓生に六点漢字とワープロを普及すると共に、県立久喜(くき)図書館の全盲職員の伊藤毅(たけし)さんを育てて下さった。
伊藤さんは六点漢字が縁で埼玉点訳研究会を作ったが、惜しいことに数年前点訳指導の帰りに、東北線蓮田駅でホームから転落死した。
先生の落胆は非常なもので、六点漢字においても大きな不幸であった。
その恩田先生も、平成7年10月17日に91歳で亡くなられた。