六点漢字の自叙伝( 6)


    《六点漢字の自叙伝》(第6回)1997年4月、通巻第172号

             −「全点協運動」の祟り −

 昭和32年日本点字図書館から本間一夫、加藤善徳両先生をはじめとする数人の方が雑司ケ谷分校寮の学習室に来られ、盲学校の生徒が1台のテープレコーダーを囲んで録音図書を楽しむ姿を見ていかれた。

この時の朗読テープは、あの条件反射で有名な『パブロフ』(アラスチャン、岩波新書)であった。

本間先生の著作『指と耳で読む』(岩波新書)に、東京教育大学附属盲学校の寄宿寮における録音テープ朗読を見学したと触れられているが、この時のことである。

その頃、附属盲と教員養成部を合わせた雑司ヶ谷分校長をしておられたのは、眼科医の大山信郎(のぶお)教育学部教授であったが、先生は乏しい雑司ヶ谷分校の予算の中から、私が最初に所有した録音機の改良型であるアカイAT-Uをまとめて5台も買って下さった。

我々はこれらを寮の部屋に分散して置いて、寮生がいつでもテープを聞けるようにした。

今考えてみると大山先生は学生、生徒のためにかなり思い切ったことをして下さったと思う。

私はこれのさらに改良型のAT-900を、平成8年11月16日の附属盲創立120年記念行事の日に合わせ、後に述べる紙テープデータによる点字タイプライターなどと共に附属盲に寄贈した。

それは、実用的に視覚障害者が最初に利用したモデルということで、保存する意義があると考えたからである。

その時寮で実際に使った機械は、残念ながらすでにない。

このときの「アカイ」は、大先輩の恩田卯平(うへい)先生から、しかるべき時に母校である附属盲に、歴史的資料として寄贈するために私が預かっていたものである。

恩田先生とは、埼玉県立盲学校(埼玉盲)で知り合った。

もっとも、同じ職員室に机を並べていたとはいえ、先生は私の30年先輩にあたる大ベテランであった。

ところで、私が埼玉盲に勤務するにあたっては、とんでもない一大波乱があった。

 先先月号で私は、「専攻科から教員養成部に進学するにあたり、全点協運動が災いするのではないかと不安であったが、それは杞憂に終わった」と書いた。

しかし、その不安は2年後の教員養成部卒業の時に的中したのであった。

昭和33年2月において、理療科21名の卒業予定者は私を除いて、全員が全国の盲学校に理療科教員として就職が決まっていた。

だがなぜか、私だけには就職先がなかった。

当時はまだ、教員養成部における盲学校からの求人情報の公表や、都道府県による公正な採用試験などはなかった。

このため、我々の就職は教員養成部の推薦と、盲学校長の判断で決まった。

私の入学試験の成績は、育英奨学金の決定番号順で判断がついたし、教員養成部在学中の成績も悪かったようには思えなかった。

私にだけ就職がない、合理的な理由はなかったはずである。

私はこのとき、はっきりと「差別された!」という実感を抱いた。

 ところが、運命の女神は思わぬところからひょっこり顔を出す。

私だけが就職先が決まらずにいたまさにそのとき、埼玉盲のS教諭が大阪府立盲学校へ急に転勤になったのだ。

しかし、すでに理療科卒業予定者は、私以外すべて就職が内定していた。

私のほかに、埼玉盲へ行ける者は誰もいなかったのである。

私はそれまでに、教員になれるなら日本のどこにでも行く覚悟ができていた。

もちろん実家が東京で、それ以外の土地は知らないから、できることなら東京近辺に勤めたいとは思っていた。

しかし、露骨に差別され、そんな贅沢が許される立場にないことも、充分わかっていた。

そこに瓢箪から駒で、4月から東京に最も近い埼玉盲へ就職することが決まった。

 奉職してから、当時の米山知譲(ちじょう)埼玉県立盲学校長から、「長谷川君は、青森、沼津、高知の盲学校から就職を拒否されたのだよ」と教えられた。

各県の盲学校長が私をマークしていたのである。

やはり全点協運動が祟ったのだ。

運動のおかげで点字教科書が十分に発行されるようになり、就学奨励費で無料にまでなったのに、その運動を起こした者を、陰湿にも盲学校の校長達がこぞって排除しようとしたのである。

彼らが劣悪な点字教科書の状態を解決してくれたら、何も私が全点協運動を起こさなくてよかったのにである。

一体だれが無責任で、だれがそれを解決したのだろうか。

私にとってはその理不尽さが、かえって幸いした形ではあるが、「終わり良ければすべてよし」と、太平楽に喜ぶ気分にはなれなかった。

 こんな昭和33年の9月頃、日本点字図書館(日点)から突然荷物が私の元へ届いた。

開けてみるとそれは、『文藝春秋』を7インチのオープンテープ1巻(2時間)に録音したものであった。

おそらく録音機を持つ他の人にも送られたと思うが、これが日点における録音図書の第1号である。

墨字の雑誌の抜粋とはいえ、原本発行とほぼ同時に読めるのは新たな感動であった。

この『文藝春秋』は今はカセットテープとなったが現在も続いており、記事の選択や朗読の質においても、優れているテープ雑誌の一つであると私は思っている。

現存する多数のテープ雑誌のうち最も古いものであり、また読者も全国にわたっている。

このテープ雑誌の発行には、株式会社文藝春秋の長年におよぶ協力があることも忘れてはならないだろう。

 日点が録音図書を郵送で貸し出すようになってすぐに、テープの郵送料が点字同様無料になった。

日点と国際キリスト教奉仕団などからの郵政省への働きかけの結果だと思う。

日点が録音テープ貸し出しを実施してから数年後、同図書館の図書貸し出しは点字とテープが同数となり、平成9年の今日ではテープが点字の約10倍になっているという。

点字印刷にくらべ制作が容易で速く、その上、同じテープを消去して何度でも使えるので毎週、毎月発行される雑誌類の録音による発行を可能にした。

また、高齢失明などにより点字を実用的に使えない人には福音でもあった。

これらは録音ライブラリー導入の大きな成果であろう。

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