《六点漢字の自叙伝》(第4回)1997年2月、通巻第170号
−夢の録音テープライブラリー−
昭和30年、この年私は教員養成部の受験を控えていた。
当時、盲学校専攻科(理療科と音楽科)は、高等部の同科3年から続く2年課程で、事実上5年制の高等部であった。
わたしは、この年いわば理療科の「5年生」であったのだ。
視覚障害者が、盲学校理療科か音楽科の教員になるためには、当時の東京教育大学教育学部特設教員養成部へ進むのが唯一の道であった。
そして、附属盲は、ここへの合格率を誇っていた。
ところで、当時附属盲とこの養成部は同じ校舎内(雑司ケ谷)にあった。
従って教員養成部の教授陣は、全点協運動の中心がどこにあったか、十分知っていたのである。
全点協運動時の教員養成部の学友会長は、五十嵐光雄氏(現、社会福祉法人光友会理事長)であった。
氏の話によると、学友会は盲学校生徒の全点協運動を支持しようとしていたが、当初同情的であった教員養成部の先生が、ある時から急に学生の活動を制止するようになったという。
後日談であるが、同氏は恐らく全国盲学校長会から「そういう学生は就職させない」という圧力があったのだろうと語っている。
このような状況下で、教員養成部へ進学を目指す我々は、全点協運動の活動が受験の合否にかかわるのではないかと、大いに不安を抱いたものであった。
昭和31年3月16日に、その合格発表はあった。
幸いなことに、私も同級で運動の中心となっていた長谷川義男、渡辺勇喜三の両君も共に合格していた。
とりあえず、不安は杞憂に終わったのだ。
こうして晴れ晴れと教員養成部に入学した頃、先輩の尾関育三氏は東京教育大学の修士課程に在学していた。
研究テーマは、電々公社(現NTT)の試作電子計算機により、点訳の自動化を目指すものであった。
その頃は「コンピュータ」でなく、「電子計算機」と呼んでいたが、一般の人にはその存在さえまったく知られていなかった。
私は数年前に偶然、コンピュータ雑誌『ASCII(アスキー)』誌上で、この電子計算機「武蔵野1号(M1)」を開発した喜安善一(きやすぜんいち)氏の対談記事を読む機会があり、その当時の事を鮮やかに思い出した。
確かにその電子計算機の素子はトランジスタでなく、日本が独自に開発したパラメトロンという素子を用いたものであった。
そんな先輩の影響を受け、私は素人ながら視覚障害を補う科学技術の導入に興味を抱くようになった。
そして、私はアメリカのLPレコードによるトーキングブックのような、視覚障害者のための録音図書サービスが日本で実現できないかと考えるようになった。
外国の情報の乏しいそのころでも、戦勝国アメリカでは視覚障害者がレコードを本として用いているという、夢のような話が聞こえていたのである。
今は、CDにすっかりとって代わられてしまったが、当時LPレコードはとても高価で、日本でレコード盤を起こし録音図書にするなどということは思いもよらなかったのだ。
そんな時代に、私は貧しい日本でも可能な録音図書の実現を考えた。
昭和31年という時代は、まだテレビ放送は始まったばかりで、民間ラジオ局が出そろいラジオが全盛の頃であった。
そのラジオ局では、毎日多数の番組を録音し流すため、録音・編集から除かれたたくさんのテープの切れ端や、すでに放送済みで不要になったテープがたくさんある。
それを集め、新たに録音して利用すれば、LPレコードに代る安価なテープによる録音図書ができる。
それを点字図書館に置いて貸し出せばよいと考えたのだ。
しかし、それには当時とても珍しく貴重であった、テープレコーダーの入手がまず先決である。
真空管式録音機が、民生用にやっと売り出された頃で、余程必要に迫られた人か企業でなければ録音機を持つことはなかった時代であった。
このテープ録音機を、私は下級生の木内(きうち)君から6,000円で譲ってもらった。
それは真空管式で、電気マニアであった木内君の兄弟が、秋葉原で半製品のキットを買って来て組み立てたものである。
この半手製の録音機は赤井AT-Iといい、それでも録音ができ、なんとか読書に使える音質であった。
そして、「点字図書館がこのような録音機でテープ図書を作り貸し出せば、視覚障害者の読書事情は非常によくなるはず」と確信した。
私はこの年、昭和31年に日本点字図書館を訪ね、加藤善徳(よしのり)先生にお会いした。
その前年、私は何人かの友人と連れ立って全点協運動へのご理解をいただくために訪れ、本間館長から過大なご厚意をいただいていた。
先生は私達の話を聞くと、ポケットからお札を取り出し「少しですが、どうぞこれを使って下さい」といわれた。
まったく思いがけないことであり、私たちは先生のご厚意にひどく感動した。
それは全点協運動におけるカンパ第1号でもあった。
今考えると、私達は寄付をしなければならない点字図書館の館長さんから、逆にカンパされたのであった。
その本間先生がお留守だったので、加藤先生と面会することになったのだ。
初めてお会いした先生は、若い私には非常に慎重に思えた。
私が「録音テープ図書を点字と共に作っていただきたい」と切り出し、放送局の不要テープの話をした。
しかし、先生は「当館は、まだとてもそのようなところまで手が回りません」ときっぱり断られた。
加藤先生もアメリカのトーキングブックのことはご存知で、将来への夢はお持ちだったと思う。
「もはや戦後ではない」という言葉は流行ったものの、寄付と奉仕で成り立つ点字図書館が財政的に困難なこともあったろう。
しかし、それ以上に録音テープで読書することが当時としては,あまりに贅沢と思われたのではなかっただろうか?
加藤先生は、有名な教育家であり「次郎物語」で知られる下村湖人の訓陶を受けていた。
そして社会運動に多く携わる中から、本間先生を支えるようになったという。
本間先生と共に加藤先生がおられなかったら、今日の日本点字図書館はなかったと私は後に知った。