《六点漢字の自叙伝》(第3回)1997年1月、通巻第169号
―「情報の平等」とパソコン ―
今でも時折、懐かしく40数年前の学生時代を思い出す。
すると木造であった寄宿舎が思い浮かび、私の耳には夜遅くまで点字器でポツポツと教科書を転写する音が聞こえる。
特に、専攻科の時に同室になった小野一郎(おのいちろう)先輩は、朝早くから夜遅くまで転写に精を出していた。
そして夜ごと寝ながら聞くその音が、私を深く考えさせた。
「これでは、グーテンベルク以前ではないか!」と。
当時点字教科書の価格は、墨字教科書の20倍もした。
私はいまでも、その時の教科書の値段をはっきり覚えている。
数学の解析Iは31円30銭で、その点字版は全3巻で595円であった。
現在、点字書3巻は約1万5千円である。
簡約医学叢書「解剖学」は全6巻であったから、平成8年の今日では約3万円に相当する。
このようなわけで、高等部1年生の国語、数学、英語、解剖学だけで点字教科書代は現在に換算すると約7万円近かったことになる。
そして皮肉なことに、それ以外の教科書は発行されていなかったので、まだこの出費で済んだのである。
私は点字教科書の実状が社会に知られないから劣悪な状態が続くのであり、これが明らかになれば解決されるのではないかと考えた。
そして、社会に訴えるには盲学校の生徒が直接運動を起こし、社会に衝撃を与えるのが効果的だとも考えた。
そして、実際に我々の直接行動が政府を動かしたのであった。
文教協議会とはいえ、国会議員により質問され、文部大臣が改善を約束せざるを得なかったことが、運動成功の要因であった。
全点協運動発足の翌年、昭和31年4月より盲学校高等部の教科書は無料となり、発行されていない教科書は急遽作られることになった。
また盲学校の教員も生徒の運動に対し、できるだけ問題を早く解決しなければならないという切迫感があったようだ。
このため、その後発行された理療科教科書には、教員が急いで作ったことを示す「関東地区盲学校理療科教科書対策委員会編」などと記されており、いかに点字教科書問題が緊急であったかがわかる。
運動そのものは、点字教科書の一応の解決方向が示されたことと、私のクラスである上級生の卒業とともに、昭和31年のうちに終わりを迎えた。
当時、貧困な国家財政下で、義務教育以外でこのような教科書無償化という特別な処置がとられたのは非常に異例なことだった。
ところで、我々は教科書の無料化を求めて運動を行ったのではなかった。
一般高校の生徒と同じ種類の教科書を同じ価格で購入し、同様に勉強したかったのである。
それが「瓢箪から駒」で、結果的に無償化されたのであった。
この全点協運動については、竹村実(たけむらみのる)氏が杉浦新(すぎうらしん)のペンネームで小説風に書いた「全点協物語」がある。
また平成7年11月25日に全点協40年を記念し、当時の関係者23名が福島県飯坂温泉に集まり、「全点協を語る会」を開いた。
かつての生徒は、盲学校教員などの定年をすでに迎えた人や、定年直前の人達であった。
40年前の生徒時代に戻り、自分が運動のどの部分を担いまたどんな事実や苦労があったかなどを話し合ったのである。
そして、お互いに初めて知ったことも多くあった。
後に愛媛県立松山盲学校の教員になった松田忠昭(まつだただあき)氏は、私などの上級生が受験で運動から手を引いてからの責任者になったが、学校からどのような弾圧があったかを話してくれた。
当時の松野憲治(まつのけんじ)校長は大変我々にご理解があり、病床から全国の盲学校に全点協への協力依頼の手紙を書いて下さった程であった。
しかし、同校長が病気のため、恐らく文部省など外部からの働きかけがあり、学校長事務取扱になった鈴木力二(すずきりきじ)教諭が運動を抑えにかかった。
しかし、多くの先生方は、生徒の運動をよく理解して下さっていたように私には思えた。
現在、熊本盲学校に勤める石淵貞次郎(いしぶちていじろう)氏は、全点協を終結させた最後の委員として、当時の記録を今でも大事に保存しているとのことである。
ところで、平成2年(1990年)に点字制定100周年を記念して日本点字委員会が発行した「日本の点字100年の歩み」の教科書の項に、全体の紙数制限があるとはいえこの全点協のことが一切触れられていないのは残念なことである。
また、昭和35年に発行された「日本盲教育写真史」(鈴木力二・編著)にも全点協については全く触れられていない。
鈴木先生は、校長事務取扱としてこの運動を抑えることに必死であったため、この運動についての写真を排除したのであろうか。
あるいは、全点協のあったことさえ「盲教育史」から抹殺したかったのかも知れない。
しかし、これは歴史資料編纂者のあり方としてはいかがなものだろうか。
平成8年の今日においても、点字教科書、弱視者用拡大文字教科書において問題がないわけではない。
しかし、当時と比べれば雲泥の差である。
恵まれた状態の前に、このような切実な運動があったということは、けっして忘れてはならないことだろう。
41年を経た今、当時の点字教科書に相当するものは、パソコンを中心とする情報機器であると私は考えている。
これを生徒に充分に与え、その利用法を教えることが、今日の「情報の平等」を求める道だと思う。
今なら10種類分の点字教科書代で生徒各自にパソコンを与えられ、生徒はCD−ROMやパソコン通信で、点字書だけでは到底得られない情報を即座に入手できる。
インターネットで世界に情報を発信し、国際的に社会参加することさえできるのだ。
国としては、新しい時代に合わせ、盲学生の情報を保障する新たな施策が必要ではないだろうか。
私は41年前に全点協運動を起こした。
そして今それを振り返りながら、このパソコンなどの情報機器を生徒に与えることが、かつての点字教科書を与えることと同様に重要なことだと確信している。