六点漢字の自叙伝( 2)


    《六点漢字の自叙伝》(第2回)1996年12月、通巻第168号

            ―情報の平等を求めて―

 私は網膜色素変性症進行のため、昭和26年3月都立富士高校1年終了と共に退学した。

そしてすぐに、東京教育大附属盲高等部理療科に入学した。

現在の筑波大附属盲と同じ敷地に、当時は教育大分校として附属盲と教育学部特設教員養成部があり、そこに学ぶ者のための寮があった。

私がここに在学したことが、後にコンピュータで自動点訳、自動代筆(現在の視覚障害者用日本語ワープロ)を手がけたことと大いに関係する。

 一つは、ここで優れた先輩である尾関育三(おぜきいくぞう)さんに巡り会えたことである。

彼は昭和26年に、東京教育大教育学部特殊教育学科に入学する。

国立大学が点字受験を初めて認めた機会に見事合格したのだ。

村中義男(むらなかよしお)さんもこの時に弱視として受験し合格している。

共に優秀な学生であり、その後大きな業績を残している。

尾関さんと村中さんは大学へ通うため、特別に雑司ヶ谷分校の寮に住むことになった。

そして、私は居室の関係で尾関さんと多く付き合うことになったが、大学に通う全盲の先輩から受ける影響は大きかった。

日本で最も初期のコンピュータと点字の研究の関係を知ったのも彼との交際からであった。

 もう一つは、普通高校から盲学校に来て、点字教科書の状態があまりにも劣悪なので、やむなく起こした「全点協」運動である。

この運動が、私に視覚障害者の情報問題の深刻さを痛感させた原点である。

ここで昭和26年〜30年頃における盲学校高等部の点字教科書の実状について述べる。

普通教科は、私が普通高校で用いていた教科書と共通のものもあったから、昭和26年の時点において、一部は点字でも普通校と同じものがあったといえる。

しかし、それらの教科書は昭和22年の六・三・三新教育制度の発足とともに間に合わせに作られたものであり、昭和25年頃から急速に改められ、私が専攻科2年にあがる昭和30年になると、一般高校ではまったく使われていなかった。

その頃、弱視の同級生で、ただひとり墨字教科書を使う真柴精一(ましばせいいち)君が、点字教科書の原本を求めて神田の書店街を探し回ったが、何年も前に絶版しておりついに入手できなかった。

このように、内容の古い点字教科書がそれでもどうにかあったのは、一種類の現代国語と英語のリーダー、それに数学の解析Iだけであった。

古文、英文法、解析 などの点字教科書はなく、その上、社会科、理科、家庭科などの教科については全く何の教科書もなかったのである。

理療科における基礎医学の教科書は、医科大学の最も簡単な解剖学、生理学などを点訳出版したものが使われていたが、原本中の図などは全部省略されていた。

その他の理療科目は、授業時間のノートだけが頼りで、当時はこれが当然のことであり、誰もが仕方がないと思っていた。

だから勉強家は、先輩が点訳した参考書などを借りて、寄宿舎で夜遅くまで、点字板でポツポツと転写していたものである。

そんな折世間では、一般の教科書についての二つの大きな問題が起こっていた。

一つは、鳩山内閣の与党日本民主党の牧野良三(まきのりょうぞう)議員により、社会科教科書の左傾化を批判する「憂うべき教科書」という小冊子が配布されたことである。

もう一つは、教科書会社が検定で作った教科書を売り込むために、贈収賄事件を起こしたことである。

これらのニュースは、新聞、ラジオなどで頻繁に大きく報道されていた。

しかし、盲学校には贈賄までして売り込もうとした、その新しい教科書の点字版はなかったのである。

この二つのニュースを聞けば聞くほど、私は一般学校と盲学校との相違に憤慨せざるを得なかった。

そこでこの年昭和30年の夏休みに、教科書問題に脚光が当てられている今こそ点字教科書問題を世に問う好機だと考え、運動を起こそうと決心した。

そして、NHKの「私たちの言葉」という投稿番組に盲学校教科書の実状を訴えた。

当時はまだラジオ時代であり、この番組は全国津々浦々までよく聴かれていたのである。

 夏休みが終わるとすぐに、同級生の長谷川義男(はせがわよしお)君に相談し、まず生徒会で問題提起することにした。

提案は9月初めに臨時生徒会総会で承認され、全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会(全点協)を結成することが決まり、全国の盲学校生徒会に参加を呼びかけた。

そして、9月9日の朝には私の投稿がNHKで放送され、同日の朝日新聞夕刊3面には、「せめて教科書が欲しい盲学生悲痛な願い」の見出しで、全点協運動の発足が大きく報道された。

運動は附属盲生徒会決議を皮切りに、9月10日の関東地区盲学校生徒大会、10月の全国大会と急速に展開した。

附属盲の代表委員は私と長谷川義男君、渡辺勇喜三君(わたなべゆきぞう)、1年下の竹村実(たけむらみのる)君であった。

運動先は文部省、厚生省、国会、各政党、東京都教育委員会、そして当時評論家として有名であった中島健蔵(けんぞう)氏などである。

とにかく関係のある所へは、手分けをしてどこへでも行った。

私は、文部省で田中正男(まさお)事務次官、緒方一郎初等中等教育局長などに陳情した。

盲学校の生徒が、このような官僚に陳情のために直接会うことは、今ではとても考えられないことである。

また、ほかの生徒達は朝の授業時間前に、池袋駅や目白駅前などで、署名運動を行なった。

寄宿舎で早く起き、重い署名用の台を大八車を押して駅前まで運び、しかも授業は休まなかったのだから、実に真剣なものであった。

全国の各盲学校でも、同様な署名運動が行なわれ、特に都立文京盲学校、京都府立盲学校などは盛んに行ったという。

 この問題は、同年10月に開かれた国会の文教協議会の席で、社会党の辻原弘市(つじはらこういち)議員の質問に対し、当時の松村謙三(まつむらけんぞう)文部大臣が、点字教科書の実状の悪さを認め、問題を改善する旨の答弁を行い大きく解決に向かう。

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